さて、あなたは映画のプロデューサーだ。今、脚本家と打ち合わせをしている。揉めているのだ。
プロットはもう9割できている。
・宇宙探検隊。男女5-6人のチームだ。
・遠く離れた惑星探査。珍しい鉱物もみつかる。
・ところが、その星の獰猛なエイリアンに、まずは仲間数名が食べられちゃう。
・逃げ出す飛行船も故障して事故。忍び込んだエイリアン。残念だが仲間がまた死ぬ。
・辛くも残ったのは男女1名づつ。でも宇宙船のエネルギーは一人分だけ。
・男の隊員は自己犠牲、ジョークを言いながら宇宙の暗闇に消える。
・一人残った女性隊員。どうしたらいいのよ?
・地球着陸のラストシーン、ハラハラ、ドキドキ! でも、なんとか着陸し、母なる大地を踏み締める。
プロデューサーのあなたと脚本家は、ラストシーンで揉めている。
あなたはハッピーエンドを主張する。
キラキラ光り輝く太陽と、豊な大地に感謝した女性隊員は、宇宙服を脱ぎ捨て、サービスシーンのT-シャツ姿で、生きて帰れたこと、生命の喜びを全身で表現し、持ち帰った珍しい鉱石を抱えた笑顔のアップで、映画は終わる。
脚本家は、まなじりを決して反論する。そんなものにはリアリティがない、と。
「たくさんの仲間を犠牲にして、一人だけ生き延びたんだ。仲間にすまない。この探査は失敗だった。後悔の悲痛な表情と涙のアップ。そして、一人で海の中に消えていく。自分も死ぬことを選ぶんだ。鉱石を抱えて海に入っていく。これがリアリティさ!」
コップにビールが入っている。「半分しかない」と思うか?「まだ半分も残っている」と感じるか?*1
最初にこのたとえ話を考えた人はたいしたもんだが、今では陳腐な説明だ。話を聞くと、なるほど「半分も残っている」と考えればいいのだな。誰もがそう思うだろう。
ならば、上のケースでは? もちろん映画さ。でもさ、どっちのエンディングに納得がいく?
もっと踏み込もう。最大級の台風が日本を直撃する。
どうやら最悪のコースを進みそうだ。首都圏を直撃してそのまま本州を北上するのは確実と見られる。もちろん行政も民間もできる限りの準備をする。前日から交通はストップ。窓ガラスに目張りを貼ったり*2。
それでも、死傷者被害者は何百人いやそれ以上になるか想像もつかない。
悪夢の一夜が明ける。台風は勢力を弱めつつ日本海に抜けた。被害は想定の10分の一以下だった。もちろん想定外のこともあったが、つかさつかさの準備がしっかりされていたし、ギリギリの幸運もあってなんとか最悪の事態には陥らずには済んだ。
さて:
「被害がこのぐらいで収まってよかった」、政治家のこの言葉に納得できますか?
要するに...
「半分以上は減ってしまうかと思ったんだけど、コップの水は1/3ぐらいしか減らなかったね」
そう納得して思い行動することができるかどうか?
あるいは:
それでも1/3は減ってしまったんだ。
そう考え、納得はできないでいるのか。
モノの見方、考え方を変えるというのはそういうことだ。コップの水の話では「なるほど」とは思ったんだろうけどね*3。
もちろん、今後のために、1/3の水が減ったことへの対応改善策は追求しなければならないのは当然である*4。しかし、どちらの考え方が自分にとってより説得的なのか。
どっちがいいと言ってはいない。「1/3しか減らなかった」と感じるのか、「1/3も減ってしまった」感じるのか、どちらの考え方もあって、そのときそのとき、状況次第で考え方を切り替えることができるかどうか? 切り替えたほうがいいのか、切り替えないほうがいいのか? 心のそこからそう思うことはできるのか?
そんなことを言いたいのです。*5
© 朽木鴻次郎
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*1:このたとえ話、本当は水です。だけど、ビールの方がぼくにはリアリティがあり切実だ。
*2:戦時中かよ!
*3:所詮コップの水さ。
*4:「悲観的に準備し、楽観的に実行する」のは危機管理へのセオリーの一つである。
*5:2020年2月、コロナウィルスが大問題になっている。政府も医療専門家も、この新しいウィルスについて、わかっていること、わかってきたこともあるが、わからないこともあるのは事実だろう。そのときわかっていること(コップに存在する水)に焦点を当て対応するのか、わからないこと(コップの中の空間、水が入っていない部分)を不安に思い「半分も水が『入ってない』じゃないか!なんとかしろ!」と叫ぶのか、どちらだろう。コップに存在する半分の水とはその例えでもある。