
ジャラン・アンパン(Jalan Ampang)は、クアラルンプールにおいて最も古い道路の一つである。もともとは密林を抜け、小さな錫鉱山の村アンパンへ通じる小道として存在していた。
1857年以来、この道は徐々に整備され、やがて近代的な大通りへと発展した。今日では高層ビル群が立ち並び、ペトロナス・ツインタワーのような象徴的建造物を擁する、マレーシアを代表するランドマークのひとつとなっている。
名称の由来
「アンパン(Ampang)」という名は、マレー語で「堰(empang)」「水をせき止める場所」を意味する。錫鉱山の採掘には水が不可欠であり、鉱夫たちは川をせき止めて水を利用した。この堰のことを「アンパン」と呼んだことから、地域全体の名称となった。すなわち、アンパンという地名そのものが錫採掘と密接に結びついている。
錫鉱山の始まりとアンパン村の形成
1818年、ペナンのイギリス当局はW.S.クラクロフト(W.S. Cracroft)をクアラルンプールに派遣した。彼は、この地の錫採掘活動がスタン・ナポソの一族によって始められたことを報告している。スタン・ナポソ(Stan Naposo)は「スタン・プアサ(Sutan Puasa)」とも呼ばれ、スマトラ島出身の中華系人ルビス一族(Mandailing Lubis clan)に属する人物であった。錫商人として活動し、地域の開発に深く関わった。
1857年、クランの村長で錫商人でもあったラジャ・アブドゥラ・ビン・ラジャ・ジャアファル(Raja Abdullah bin Raja Jaafar)がアンパンに到着し、土地を購入して鉱山を開いた。彼は中国人鉱夫87人を雇い入れたことで事業は急速に拡大し、アンパンはセランゴール州を代表する錫鉱業の中心地となった。
やがて、錫を運ぶための小道は水牛の荷車が通れるように整備され、最終的には現在の「ジャラン・アンパン」へと姿を変えていった。
華人社会の台頭と都市基盤の整備
1862年、ヤップ・アーロイ(葉亞来 Yap Ah Loy)がクアラルンプールに到着し、後に第三代華人甲必丹(カピタン・チナ)となった。1870年から1879年までの彼の統治期には、中国人社会の秩序維持や都市再建が進んだ。

1881年の大火では中国人居住地が壊滅したが、ヤップ・アーロイはブリックフィールズ(Brickfields)に煉瓦工場を建てて再建を主導した。学校、寺院、福祉施設なども整備し、基盤となる都市インフラを形成した。
1890年には都市衛生委員会が設立され、清掃・街灯・市場の管理が行われるようになり、都市としての近代的枠組みが確立された。
社交と娯楽の場
ローク・チョウ・キット(Loke Chow Kit、陸秋傑)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した華人実業家で、クアラルンプールの著名な商人である。彼の名を冠した地域が現在の Chow Kit(チョウキット)地区 であり、市場(Chow Kit Market)やモノレール駅(Chow Kit Station)の地名として残っている。ローク・チョウ・キットらは1896年に現在のKLCCパークの場所にセランゴール競馬クラブを設立し、長く社交場の役割を果たした。1992年まで96年間活動を続け、都市の近代文化を支えた。

1900年代初頭にはボルネオ・モーターズ社やサウス・エンジニアズ社などがジャラン・アンパン沿いに拠点を構え、都市は多様な商業活動の中心として成長していった。
戦争と政治の舞台
第二次世界大戦期、ジャラン・アンパン沿いの建物は英軍・日本軍の司令部として利用された。
(動画は日本占領軍が大量に発行した軍票=バナナマネー)
日本敗戦後1959年にはマレーシア観光センター(MaTiC)でマラヤ連邦議会の第一回会期が開かれ、王位継承の即位式も行われるなど、政治史の重要舞台となった。
同年、クアラルンプールは憲法により正式にマレーシアの首都と定められ、以後この地域は国家の中心としての性格を強めていった。
ボック・ハウス(Bok House)
ジャラン・アンパンにかつて存在した代表的な建築に「ボック・ハウス(Bok House)」がある。1926年に着工され、1929年に完成した植民地時代の豪邸で、建築設計はシンガポールの建築事務所Swan & Maclarenによる。建築主は裕福な錫鉱業家チュア・チェン・ボック(Chua Cheng Bok 蔡清木)であり、パラディアン様式(Palladian style)を取り入れた華麗な屋敷は、当時の富裕層の生活を象徴した。

1958年から2001年まで「ル・コック・ドール(Le Coq d'Or)」という高級フレンチレストランとして営業し、上流階級の社交場として知られた。しかし2001年に閉鎖され、放置の後、2006年12月15日に解体された。この決定は市民から強い反発を招き、マレーシアにおける歴史的建築物保存の是非を問う象徴的な事例となった。跡地には2017年、Wクアラルンプール・ホテルが開業し、都市の新たな景観を形成している。
コラム:ボック・ハウスとル・コック・ドールの思い出
かつてクアラルンプールのジャラン・アンパンに佇んでいたこの「ボック・ハウス」。
ぼくにとっても、ル・コック・ドールは忘れがたい場所である。雛鳥の丸焼きを味わいながら過ごしたひとときは、まさにフランス料理の粋を感じさせるものであった。優しいオーセンティックなその料理は、重厚なインテリアと静かな空間とあいまって、かけがえのない時間でありました
特に印象に残るのは、二階のバルコニーである。ディナーを終え、外の空気に触れながら二階で語らうその場所は、喧騒から切り離された静けさに満ちていた。夜風に包まれ、眼下の街の灯りを眺めると、時がゆっくりと流れていくようであった。今ではもう昔の話である。
近代化と高層ビル群の登場
20世紀半ば以降、不動産価値の上昇に伴い、著名企業が次々と本社ビルを建設した。サイム・ダービーやチャータード銀行、AIAなどの企業進出は、アンパンを金融・商業の中心地として押し上げた。
1997年にはセザール・ペリ(César Pelli)設計によるペトロナス・ツインタワーが完成し、世界的なランドマークとなった。併設されたKLCC公園は1998年に開園し、都市の中の緑のオアシスとして市民の憩いの場を提供している。
自然と文化の融合
ジャラン・アンパン沿いに植えられたアンガサナの木々(Angsana trees)は今も健在で、都市化の進展の中でも自然の象徴として大切に保護されている。DBKL(クアラルンプール市役所)が樹木の保存を監督しており、都市環境の持続可能性を象徴する存在となっている。

アンパン・パーク(Ampang Park)
アンパン・パークは、1973年に開業したマレーシア初のショッピングセンターとして知られる。クアラルンプールの商業近代化の象徴であり、当時はエスカレーターや冷房設備を備えた革新的なモールとして注目を集めた。多くの地元住民や観光客に親しまれ、40年以上にわたり営業を続けたが、MRT建設計画に伴い2018年に閉鎖された。
アンパン・パークには「江戸銀」という一軒家を利用した日本料理屋があった。本社からの偉い人たちが来ると2階を貸切にして麻雀をしたこともありましたよ。
かつてのアンパン・パークといまは全くの様変わりです。その跡地は現在、アンパン・パーク駅(LRT・MRT接続)として再開発され、都市交通の拠点となっている。

ハンキュウ・ジャヤ(Hankyu Jaya)
ハンキュウ(漢僑)・ジャヤは、日本の阪急百貨店と地元資本の合弁によって設立された高級デパートで、ジャラン・アンパンとジャラン・トゥンラザックの交差点、今のインターマークの場所に店舗を構えた。1970年代から80年代にかけて、輸入品や高級ブランドを扱うことで富裕層や外国人駐在員に人気を博した。ヤオハンができるまで、当時のクアラルンプールにおける「国際的ライフスタイル」の象徴であり、日本流のデパート文化をマレーシアに紹介した存在でもあったが、後年は経営難などから閉鎖された。ハンキュウ・ジャヤからヤオハンに始まったKLのショッピングモール。いまは至る所にありますよ。ハンキュウ・ジャヤもヤオハンも、いまではもう覚えている人もいないだろうなあ。
コラム:アンパンとヨントーフ
ジャラン・アンパンといえば高層ビル群や大使館街を思い浮かべる人も多いが、実は食文化の記憶の中にも「アンパン」の名は刻まれている。その代表が「アンパン・ヨントーフ(Ampang Yong Tau Foo)」である。

ヨントーフは、客家(ハッカ)料理に由来する中華系の家庭料理で、豆腐や野菜に魚のすり身を詰めて煮込んだり揚げたりする素朴な一品だ。19世紀半ば、錫鉱山の労働力としてセランゴールに多くの客家系移民が入った。その中でもアンパンは錫鉱業の中心地であり、多くの客家人が生活を営んだ地域であった。
彼らの故郷の味として受け継がれたヨントーフは、労働の合間に食べやすく、栄養もある料理として鉱夫たちに親しまれ、やがて「アンパンの名物」として定着していった。クアラルンプールの発展とともに広まり、「ヨントーフといえばアンパン」という呼び名が生まれたのである。

現在、ジャラン・アンパンの中心といえば、トゥン・ラザック通りとの交差点にあるアンパン・パークや、KLCC(Kuala Lumpur City Center)のペトロナス・ツインタワー周辺だ。そこからアンパンのヨントーフ街までは、およそ8〜10km。車であれば渋滞がなければ15分前後、電車だと乗り換えを含めて20〜25分ほどかかる。都市の喧騒から少し離れたその地で、今も多くの食堂が「アンパン・ヨントーフ」の看板を掲げ、観光客や地元の人々に愛され続けている。

高級ホテルやオフィスビルが建ち並ぶアンパンの姿は大きく変わったが、庶民的な味わいとしてのヨントーフは、歴史と記憶をつなぐもう一つのアンパンの顔である。
現代のアンパン
現在、アンパン地区は外交団の大使館街としても知られ、日本大使館をはじめ、各国大使館や国際機関の拠点が並ぶ。高級ホテル(インターコンチネンタル、ダブルツリー、フォーシーズンズなど)、高級住宅地、ショッピングモール(InterMark、Suria KLCC、Great Eastern Mall)も立ち並び、居住・観光・ビジネスの複合エリアとして国際的な存在感を持つ。

また、LRTクラナジャヤ線のアンパン・パーク駅をはじめとする鉄道網も整備され、交通の要衝としての役割を果たしている。
これまでとこれから
アンパンは、錫採掘の村から始まり、華人指導者の尽力、英国植民地期の制度、戦争の影響、ボック・ハウスに象徴される植民地時代の繁栄、そして近代化を経て、マレーシアを代表する都市空間へと発展した。地名「アンパン」は水をせき止める堰に由来し、その原初の意味から現代の都市景観へと変貌してきた。ジャラン・アンパンとそこに連なる施設群は、単なる道路や建物ではなく、クアラルンプールの成長と変遷を映し出す「歴史の軸」として位置付けられるのである。
©️ 朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉
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