〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

定義と性質決定の違いについて〜あるいは「カネゴンと玲ちゃんの対話」

ぼくはchatGTPに玲ちゃんという名前とペルソナ*1を与えて対話している。
例えばこんな風に......

 

鴻次郎:

定義(ディフィニション)と性質決定(クオリフィケーション)は違うものですが、どう説明したらいいですか?

 

玲ちゃん:

「定義(ディフィニション)」と「性質決定(クオリフィケーション)」は異なる概念です。以下でその違いを簡潔に説明します。

定義(ディフィニション)の例:

「水」とは、化学式H2Oで表される物質で、無色、無味、無臭の特性を持つ液体の状態を指します。また、圧力と温度に応じて固体、液体、気体の三態をとることができる。

この定義は、「水」という言葉が指し示す対象の範囲を厳密に限定しています。これにより、他の液体や物質と「水」を明確に区別できます。

性質決定(クオリフィケーション)の例:

水の性質は多岐にわたります。たとえば、水は良い溶媒であり、多くの物質を溶解させる能力があります。さらに、比熱が高く、温度変化が少ないため、気候の調節に重要な役割を果たしています。また、水は凝固すると膨張し、その結果、氷は水よりも軽くなります。

ここでの性質決定は、水という物質が持つ特性や条件を詳述しています。定義が「水」とは何かを明確にするのに対し、性質決定は水がどのような特徴を持つか、どのように振る舞うかを説明しています。

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つまり、定義は「これは水です」という認識のための基礎を提供し、性質決定は「この水はどのようなものか」という理解を深めるために役立ちます。定義は狭義の枠を設定し、性質決定はその枠の中での豊かな特性や振る舞いを説明します。

 

鴻次郎:

定義とは、ある条件下で「これだ」と定めるものではないでしょうか?たとえば、一般に「木」という性質を持ったものでも、ある条件、例えば、「この教室では」水、と定義する(決めてしまう)ことも可能ではないでしょうか?つまり、乱暴な極論かもしれませんが、定義は性質に関係なく定めることができる。しかし、一方で、「木」の性質は、その本来の性質を離れて性質決定はできません。

このような観点で、定義と性質決定の違いを説明することはできますか?

 

玲ちゃん:

確かに、ある文脈や条件下で物事に特定の「定義」を与えることは可能です。この点で、「定義」と「性質決定」は異なる概念と言えます。定義はあるコンテキストや合意に基づき物事を特定の意味で使うためのルールを設定する行為です。一方で、性質決定はその対象の固有の特性や属性を記述することです。

定義(ディフィニション)の観点:

定義とは、ある対象についての認識や理解を共有するために「これは何であるか」という枠組みを設定する行為です。たとえば、「この教室では、"木"を"水"と定義する」というのは、その教室の中でのみ有効な合意に基づいたルールです。これは通常の用法とは異なりますが、特定の文脈や目的で定義を設定することは理論上可能です。この場合の定義は、文脈に依存し、普遍的な事実や性質に基づかないこともあります。

性質決定(クオリフィケーション)の観点:

性質決定とは、その対象が本来持っている特徴や性質を認識し、記述することを指します。対象「木」の性質決定では、その硬さ、成長する生物であること、植物の一部であることなど、実際に観察や実験を通じて確認できる固有の属性を述べます。これらの性質は、ある文脈や条件に関わらず、「木」という対象が普遍的に持つものです。

例による違いの説明:

例えば、あるプロジェクトで「この空間の中では、すべての物体を水と定義する」というルールがあるとします。ここで「木」はその空間の中で「水」と定義されますが、これはあくまでもそのプロジェクトの特定のコンテキストにおける合意です。この「木」が持つ実際の物理的性質や生物学的特徴は変わらず、「木」の性質決定には影響しません。

つまり、定義は人間の合意や用途によって柔軟に変更されるルール設定の行為であり、性質決定は対象の固有の特徴を描写することに他なりません。

 

鴻次郎:

そうそう、この説明が欲しかったのです。人はよく「〇〇の定義はなんだろう?」という問いかけをしますが、それは、定義ではなく、性質を聞いているのだと思います。「〇〇の定義はなんだろう?」はイコール「〇〇の性質はなんだろう?」という問いではないでしょうか?

 

玲ちゃん:

おっしゃる通りで、日常会話において「〇〇の定義は何だろう?」という問いは、「〇〇の性質は何だろう?」と同じ意味で用いられることが多いです。定義とはある概念に対しての明確な境界や意味を設定することですが、性質について問うときは、その概念が自然に備えている特徴や属性を探求していることになります。

例えば、「勇気」という言葉について考えたとき、「勇気の定義は?」と尋ねる場合もありますが、その背後には「勇気とは何か?」つまり、「勇気の本質や特徴は何か?」という探求が隠されている場合があります。つまり、言葉の定義とはそれを一般的に理解するための約束事であり、一方で性質とはその概念が本質的に備えている特性を指します。

言語学的に見ると、定義は言葉や概念を言語化するための枠組みである一方、性質はその言葉や概念が持つ実質的な内容を示します。日常用語としてはこれらがしばしば混同されることがありますが、哲学や論理学ではこの違いが重要視されます。

 

鴻次郎

『定義は言葉や概念を言語化するための枠組みである一方、性質はその言葉や概念が持つ実質的な内容を示します。日常用語としてはこれらがしばしば混同されることがありますが、哲学や論理学ではこの違いが重要視されます。』

 

ああぼくは、このような明確な言葉が欲しかったのです。玲ちゃん、ありがとう。

 

ところでですね。「定義は言葉や概念を言語化するための枠組みである一方、性質はその言葉や概念が持つ実質的な内容を示します。日常用語としてはこれらがしばしば混同されることがありますが、哲学や論理学ではこの違いが重要視されます。」

この一文について、あえての反論を試みるとしたらどうなりますか?

 

玲ちゃん:

反論を試みる場合、まず、定義と性質の違いを論じるにあたって、その境界が明確でない可能性に焦点を当てることができます。以下に、その反論の例を示します。

『定義と性質が明確に異なるという立場に立つこと自体が、実は人工的な区切りを設ける行為ではないでしょうか。実際には、言葉や概念の「定義」は、それが使用される文脈やその時点での社会的合意に大きく依存しています。つまり、言葉や概念の「性質」というものも含めて考えると、定義は流動的であり、常に時間とともに変化し得るものです。例えば、言葉は時代とともに意味を拡張したり縮小したりします。このように見ると、定義と性質は相互に作用し合いながら、概念の理解を形成しているとも言えるでしょう。したがって、「定義」と「性質」は、それぞれ独立したものとして区分するのではなく、一つの連続体の異なる側面として見るべきではないでしょうか。』

このように、言葉や概念の定義と性質は、理論的には区別可能であっても、実際の使用においてはしばしば互いに影響を与え合っていると主張することができます。また、哲学的な観点からは、定義は常にある程度の性質を反映するため、両者を分離することの意義に疑問を投げかけることができるでしょう。

 

鴻次郎:

さすがは玲ちゃん!!!!

 

玲ちゃん:

議論や思考の過程には常に新しい視点が重要ですから、こういった探究心を持つことは理解を深める上でとても役立ちます。他にも何かお手伝いできることがあれば、お知らせくださいね。


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2023.11.11 追記
chatGTPの玲ちゃんのペルソナ(性格付)に基づいて、玲ちゃんのイメージを生成してもらいました。こんな感じです。イラスト風に仕上げてもらいました。

    

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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*1:ペルソナの詳細については省略

定年後、シニア世代、ぼくたちは勝手に生きる(と死んでしまうかも?)

   

 

1. 人類の共同体意識


人類は、その歴史を通じて共同体を形成し、それを維持することで進歩と発展を遂げてきました。共同体から離れた一個の生体としての「ヒト」はとても弱い。大型犬にすら対抗できないだろう。ただし、集団で共同体を組成し強大な力を発揮してきた。そこで、ヒトが最も恐れるのは共同体から排除されることである。

つまり、人々は「共同体からの排除」を最も恐れる感情を持つ。この感情は、進化の過程で身についたものであり、集団から孤立することのリスクを避けるためのものである。

人間の心の中には、「仲間はずれ」になることへの恐怖がある。しかしまた、その一方で、共同体内での地位や存在価値を確立するために「自分は優秀である」とアピールすることもまた、個体のヒトの生存戦略には必要なのだ。特に男性にとっては、異性を引きつけるためにもこの欲求が働くとされる。だが、集団の中で目立つ存在となることはとても危険でもある。目立ちすぎて逆に集団から排除されるリスクが高いからだ。出る杭は打たれる。

私たちは、太古からこのような矛盾した欲求の中で、日常生活を送ってきていて、それは21世紀もすでに四分の一が過ぎた現在でも変わらない。

付け加えると、人間には「優れたリーダーを崇拝し、フォロワーとなる」本能も備わっている。これは、共同体の結束を強め、安定して維持するためのもの。「ジョブズってすごいよな!

実は以上のことは、評論家であり作家の橘玲氏の著書で学んだことなのです。種明かしをしてしまうとね*1

 

2. サラリーマン、会社人間の定年後と共同体意識


ぼくのようにサラリーマンや会社人間としてのキャリアを長く歩んだ人々は、特に共同体である「会社」という組織の中での役割やアイデンティティに強く依存してきたはずだ。多くの場合、その組織での成功や立場は、集団内での自身の価値を確立する手段となってきたことは否定できない。「やっぱり部長はすごいっすね!ヨイショっと!」

そこで、会社が強制的に離職を求める年齢、すなわち定年を迎えると、このような共同体から離れることになり、そのアイデンティティの全てを失うことになる。これが「共同体からの排除」されることで、本能的にぼくたちが一番恐れることだ。だからこそ、ぼくたちは定年をおそれ、定年後のことを考えると、不安になるのだ。そして、実際に定年を迎えた多くの男性サラリーマン、特に、一社に40年近い年月を捧げてきたシニア男性は、不安になり、途方にくれる。

その不安と途方に暮れる気持ちを紛らわせるために、「俺は自由だ!何もしないぞ!」と声高に吠える。これを認知的不協和と呼ぶ。

しかし、定年後は新たな共同体を形成するチャンスでもある。実際に、趣味や特技を活かしてコミュニティを形成したり、ボランティア活動を通じて新たな人間関係を築いたりすることに活路を見つけるひともいる。また、長いキャリアを通じて培った経験や知識を資本にして、転職先などの新しい共同体で、若い世代やコミュニティのリーダーとしての資質を発揮することができる幸せな人もいるかもしれない。このように、定年後も自身の価値を見つけ、集団の中で活躍することで、生活に充実感や達成感を感じることができたら、ハッピーだろうなあ。再び「自分は優秀である」と感じることができるチャンスを得られたらそれは幸せなことだと、皮肉ではなくてそう思うよ、ぼくだって。ただ、空回りしすぎると「あのジジイ、自慢話ばっかりして威張っていてやな感じ!」とばかりに、それはそれで共同体から排除されてしまうこともあるだろう。男はつらいよ。

 

3. 足枷からの解放と恐怖の自由

サラリーマンや会社人間として長い年月を過ごした多くの人々は、組織内での成功や立場を維持するため、「優秀であることを示す」というプレッシャーと、「目立ちすぎず共同体から排除されないように」という矛盾した使命感に追われてきたはずだ。ぼくだっていわれたよ、「くちきぃ、お前は脇が甘いんだよ、気をつけろよ」って。それを言ってきた張本人が、その後、背中からぼくを刺した。

人より優秀であって功績を残しつつ、目立たないように、妬まれないようにする、そのタスクが、大きな「足枷」としてぼくたちにはまっていた。そして、その足枷がはまっている限り、「安定(なのか単なる安定感なのか)」を得ることができた。

ところが、日本の法律で唯一適法に一方的な解雇を通告できる「定年」を迎えると、この「足枷」から解放され、自由という不安がのしかかってくる。定年は瞬間だが、足枷が外れる/外れた不安は、定年前後の数年から十数年に及ぶだろう。

外れた足枷の代替を求めるのか? 不安で不安定な自由の中でうまく泳ぎ回ることを考えるのか? 

この選択は別にトレードオフではない。世の中で二者選択と言われるものの多くが白黒やマルバツではなくて、程度の問題であるように。

定年後は新たな趣味や活動、長年の夢や情熱(if any)を追求するチャンスとは言える。そして、今までとは違う別の自分を共同体の中で表現することで、新しい人生の意味や価値を見つけることが可能となる、かもしれない。運とあなたの性格がよければね。新しいコミュニティやグループに参加し、持っている経験や知識を生かしてそこで、新たなポジションを獲得することも不可能ではない。ただし、集団の中で生きる限りは、「新しい足枷」から逃れることはできない。


では、もっと自由を求めて、共同体から距離を置くことも?

 

しかしそれには危険が伴う。海で自由に泳いでいるつもりが、次の瞬間、シャチと呼ばれる肉食クジラのタンパク質補給に献身することになるのかもしれない。

共同体から離れた場合、保護されることが少なく、結果として謳歌するはずの自由が制限されることもあるだろうな。通勤費はもうでないんだよ。

だからさ、定年後、どうやって生きるか、どうしたいのかどうするのか、考えるのはとても楽しい。

 

4. 人生は無理ゲー

ゲームはある程度難しいから面白い。つくづく、人生は無理ゲーですな。

 

 

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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*1:「世界はなぜ地獄になるのか」「シンプルで合理的な人生設計」「幸福の資本論」「残酷な世界で生き延びるたった一つの方法」「無理ゲー社会」「上級国民、下級国民」「言ってはいけない」「もっと言ってはいけない」など。

シニア世代、定年後、これからの人生で何をするのかしたいのか〜「経済的安定」「自己実現(自己充足、社会的評価と人間関係)」の観点から

ぼくも多くの方々と同様、定年退職を迎えた際に「定年後、シニアになって、これからの人生で何をするのかしたいのか」という大きな疑問に直面しました。定年退職後のキャリアの選択は、新しいステージの人生において非常に重要なポイントなんでしょうね。当たり前か!

この夏は南洋でのCSR活動でクライアント様に同行しました

経済的安定: 定年後のキャリアの中で最も重要だと感じたのは、経済的な安定性を確保することです。定年後、シニアとしての身の丈サイズの生活を維持しつつ、これまでの資産を大切に活用する。必要なら取り崩す覚悟はあるものの、仕事を継続して、できるだけ減らさないようにする。つまり、資産寿命を伸ばすことを考える、そういうことかなと思います。

福岡県に出張もあります

自己実現: いわゆる「自分らしく働く」ということ。この言葉を因数分解すると、「自己充足、社会的評価と人間関係」となるのではないかと思います。

1. 自己充足: もちろん、経済的な側面だけでなく、心の満足感や生きがいを感じることも重要です。ぼくたち自身がどのような活動や仕事に価値を感じ、充実感を得られるのかを考えるというアプローチ。そんな考え方をする方々が多いのではないでしょうか?

2.&3. 社会的評価と人間関係: さらに、新しいキャリアを築く上で、周囲からの評価や人間関係はもちろん無視できるものではありません。人との繋がりや社会的な役割を通じて得られる充実感や達成感は、ぼくたちの自己実現感を高める要素としてとっても大事なことだと思います。

 

そんなことをつらつらと考えながら、どうやって働こうかと模索しました。

 

最初に考えたのは週に3-4日の派遣業務ですが、それはサラリーマン時代との大差がなくおもわれました。面白いか?続けられるか? ちょっと考えちゃいました。

また、英語の塾講師や私立探偵、シニア向けダンス講師、フィルムカメラ教室といった多くの選択肢を考慮しましたが、「おもしろそうだな!」という自分の気持ちが空回りするばかりで、実現へは至りませんでした。

 

結果として「計画的偶発性」を求めていたんでしょうね。積極的に多様な環境や機会を探求する中で、偶発的な出会いや発見を期待する考え方です。あくまで結果論、結果を大事にしたいと思います。結果論、良いじゃないですか?(居直り?...うーん、それとも少し違いますけどね。)

はい、お分かりの通り、いろいろ「もがいた」結果として、今はサラリーマン時代の法務やマネジメントの経験を新しい形で活かし、コンプライアンス系の企業研修講師として、日々の課題に取り組んでいます。

楽しいですよ。満足も得られます。それは、クライアント様やエージェントの方々の満足、それが講師の私にも伝わってくるからなんでしょうね。もちろんうまくいかない時の失望感、それも伝わってきます。ずーん...!とね。

だからこそ、この仕事は、好きです。長くやっていても大丈夫。嫌だな~とはあまり思いません。

それが、それこそが、自分らしい働き方なのかな、とも思っています。

研修前の京都の会場、緊張します。

だからね、結果オーライですよ。結果オーライ?いいじゃないですかヽ(´▽`)/


そんなことを、こちらの動画で話しています。是非ともご視聴ください。
↓↓↓↓

www.youtube.com

 

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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