〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

AIの普及速度の謎への一つの回答 〜 なぜ社会変革型技術を、これほど短期間で大量供給できたのか

AIの急速な普及については、自然な言葉で簡単に使えること、用途が広いこと、無料または低価格で試せることなど、主として利用者側から説明されることが多いようです。しかし、いくら利用者が欲しがっても、技術的に実現できず、需要に応じて安定的に供給できなければ、これほど短期間には広がりません。

以下のQ&Aでは、利用者側の事情に加えて、供給側がなぜAIを短期間で開発・改良し、一定の品質を保ちながら、大量かつ安価に供給できたのかという点にも着目しました。経済学で論じられる限界費用、技術面における基盤モデル、供給を支えるクラウドやAPIなど、本来は別々に語られることの多い要素を、ビジネスパーソン、とりわけ製造業に携わる人にはなじみのあるQCD(品質・コスト・納期)という枠組みで考察します。AIの普及速度を考えるための、一つの見方としてご理解ください。

Q.生成AIは、2022年から2023年頃に一般社会へ登場し、瞬く間に爆発的に広がりました。広がったのは言語生成AI(要するにチャット型/質問回答型)だけではありません。フィジカルAI、医療AIをはじめ、企業、自治体、政府など、さまざまな分野で利用が進んでいます。

先日、自治体の主任・課長級職員約100人を対象にコンプライアンス研修を行った際、「AIを使っている人、いますか?」と尋ねたところ、ほとんどの人が手を挙げました。これには驚きました。ぼくが接している民間企業よりも、ずっと早くそして広く浸透している印象です。外部に情報を出さず、閉じた環境でAIを利用する自治体も増えています。

わずか数年で、これほど広がった技術は、これまでなかったのではないでしょうか。しかも、一時的な流行ではなく、世の中そのものを変える可能性を持つ革新的技術です。なぜ、これほど短期間に普及したのでしょうか。

私たち受け手側、すなわち一般ユーザーや大衆の視点と、AI企業やIT産業など供給側の視点――品質・コスト・納期というQCD、設備投資、技術開発など――の二つの観点から回答してください。

 

A.AIは、産業革命以降に登場した社会変革型の汎用技術の中で、最も短期間に、最も広い分野へ浸透し始めた技術の一つと考えてよいでしょう。その理由は、利用者側の需要が爆発しただけでなく、供給側にも、その需要に応えて大量かつ迅速にAIを提供できる条件が揃っていたからです。利用者側と供給側(AI/IT企業側)の二つの視点から考えてみます。

■■■ まず、一般ユーザーや大衆など、利用者側の理由です。

生成AIは、専門的な操作方法を覚えなくても、普段使っている言葉で指示できます。従来は人間がコンピューターの操作方法を学ぶ必要がありましたが、生成AIでは、機械の側が人間の言葉に合わせるようになりました。これは、普及という点で非常に大きな転換です。

しかも、文章作成、要約、翻訳、調査、企画、相談、画像生成、プログラム作成など、用途が極めて広い。ブラウザやスマートフォンから無料または低価格で試すことができ、数秒で結果が返ってきます。導入費用や失敗したときの損失も小さく、「使ってみる」までのハードルと、「役に立つ」と感じるまでの時間が、従来の技術に比べて格段に短かったのです。

また、生成AIの出力は、そのまま人に見せることができます。「こんな文章ができた」「こんな画像を作れた」という利用例がSNSなどで共有され、技術だけでなく使い方も急速に広がりました。コロナ禍を経て、企業や自治体でオンライン業務やデジタルツールへの抵抗感が薄れていたことも、普及を後押ししました。

ただし、一般大衆がいくら欲しがっても、技術的に実現できず、安定して供給できなければ普及しません。AIの普及を考えるうえでは、利用者側以上に、供給者側の条件が重要です。

 

■■■ 次はAI企業やIT産業など、供給側の理由です。

ここが質問の核心的なポイントだと思います。なぜ上記の利用者の大量のニーズに即座に安価に応えることができたのか?

供給側では、長年の技術開発の蓄積によって、QCD、すなわちQuality(品質)、Cost(コスト)、Delivery(納期・供給)の三つが、ほぼ同じ時期に実用水準へ達しました。

▶︎ 品質、信頼性の観点から
まずQuality、品質です。生成AIは2022年に突然生まれたわけではありません。長年にわたるAI研究に加え、Transformer、大量の学習データ、GPUの性能向上、クラウドなどが組み合わさり、AIの性能と汎用性が一つの臨界点を超えました。

さらに重要なのは、企業や自治体が、用途ごとにAIを一から開発する必要がなくなったことです。AI企業が開発した基盤モデルを共通部品として利用し、そこに組織内のデータ、規則、専門知識を組み合わせれば、それぞれの業務に対応できます。文章生成、医療、製造、行政、ロボットなど、異なる分野の事業者が、同じ技術基盤を利用して、それぞれのサービスを開発できるようになったのです。

また、AIは利用結果を踏まえて継続的に改良できます。供給者側でモデルやシステムを更新すれば、多数の利用者へ一斉に改良版を提供できます。ただし、AIの回答が常に正しいという意味で品質が完成したわけではありません。ハルシネーションなどは残りますが、人間による確認、検索との連携、利用範囲の限定、閉じた環境での運用などを組み合わせることで、実務に投入できる品質を確保できるようになりました。

▶︎ 費用、コスト、利用料の観点から

次にCost、コストです。最先端のAI開発には、高性能半導体、データセンター、電力、データ、専門人材など、莫大な設備投資と開発費が必要です。しかし、一度開発された基盤モデルは、多数の企業や利用者が共同で利用できます。個々の企業や自治体は、巨大なAIを自ら開発せず、クラウドやAPIを通じて、必要な量だけ利用できます。

つまり、上流のAI企業には巨額の先行投資が必要である一方、完成したAIを追加の利用者へ提供する限界費用は、物理的な製品に比べて小さい。巨額の開発費を世界中の多数の利用者で分担できるため、一人ひとりには無料または低価格で提供できます。大規模な設備投資と利用料金の安さが、矛盾せずに両立する構造になっているのです。

▶︎ 安定した供給、短期対応の観点から

最後はDelivery、納期と確実な供給です。蒸気機関、自動車、電気、鉄道、電話などは、工場、道路、線路、発電所、通信網、販売網などを整備しなければ普及しませんでした。どれほど需要があっても、供給能力を増やすには長い時間が必要でした。

AIは違います。すでに普及していたインターネット、パソコン、スマートフォン、クラウド、データセンター、企業や行政の情報システムを、そのまま供給網として利用できました。一度完成したソフトウェアは、インターネットを通じて世界中へ短期間で配布できます。改良した場合も、利用者の手元にある製品を回収せず、供給者側で更新できます。

API、クラウドサービス、オープンソースモデルが普及したことで、ソフトウェア会社、医療機器メーカー、ロボットメーカー、企業、自治体などが、AIそのものを一から発明せず、自社の製品や業務へ組み込めるようになりました。機密情報を外部へ出せない組織でも、専用クラウドや組織内の閉じた環境で運用できます。

つまり、AI企業だけがAIを供給したのではありません。半導体企業、クラウド企業、ソフトウェア会社、医療機器メーカー、ロボットメーカー、システム開発会社などが、共通の技術基盤を使って、それぞれの分野で同時にAIを供給しました。一社ずつ、一分野ずつ普及したのではなく、供給者そのものが世界中で一斉に増えたのです。

もちろん、言語生成AIと、医療AIやフィジカルAIが、同じ速度で実用化されたわけではありません。医療機器、ロボット、自動運転などは、誤作動が生命や身体に影響するため、安全性、法規制、設備更新、事故責任などの問題があり、社会実装にはより長い時間がかかります。それでも、共通するAI技術が、これほど多くの分野へ同時に入り始めたこと自体が異例です。

■■■ まとめ なぜ社会変革型技術を、これほど短期間で大量供給できたのか

利用者側では、「簡単に使える、用途が広い、すぐ役に立つ、安価である」という需要が爆発しました。供給者側では、「作れる、改良できる、安く提供できる、短期間で大量かつ安定して届けられる」というQCDが成立しました。

需要の爆発と供給能力の爆発が、同じ時期に重なった。それが、AIという革新的なテクノロジーが、産業革命以来最速といっても決して大げさではない速度で、社会へ浸透し始めた理由なのではないでしょうか。

■■■【補足:QCDが完成したという意味ではありません】

本文でいう「QCDの成立」とは、AIの品質、コスト、供給体制に関する問題がすべて解決したという意味ではありません。爆発的な普及を可能にする水準に達した、という趣旨です。

・品質面では、ハルシネーションや誤回答などの問題が残っており、特に医療、金融、法務、顧客対応などでは、AIそのものの性能だけでなく、人間による確認を含めた運用全体の品質が問われています。

・コスト面では、利用者が無料または月額数千円で使える一方、その供給を支える半導体、データセンター、電力、研究開発には巨額の投資が続いています。現在の低価格には、市場シェアの獲得を優先した価格設定が含まれている可能性もあり、この料金水準が将来も維持されるとは限りません。消費者向けAIでは、利用者の入力内容や利用履歴などを、法令や利用規約の範囲内で収集・分析し、ビッグデータとしてサービスの改良や広告、関連サービスの販売などに活用するビジネスモデルも背景にあると考えられます。利用者の情報そのものを第三者へ販売するとは限りませんが、そこから得られた分析結果や広告機会を収益化する場合もあります。無料または低価格での提供には、利用料金以外の形で将来の収益を得ることが視野に入っている可能性もあるでしょう。(実際のデータ利用や収益モデルは、AIサービスや事業者によって異なるでしょうが。)

・供給面でも、インターネットを通じて短期間で届けられるのは、主としてソフトウェアとしてのAIです。ロボット、自動運転、医療機器などのフィジカルAIには、機械の製造・設置、安全性の確認、法規制への対応が必要であり、従来の製造業と同様の長いリードタイムが残ります。

・AIのQCDはすべての領域で完成したのではなく、用途や分野によって異なる制約を抱えながら、社会への急速な普及を可能にする段階へうまい具合に到達した、と理解するのが適切でしょう。


©️ 朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉
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タイムスリップ朱玲蘭〜1984年、広州・流花公園の記憶

中国語を話すアバターとして、マレーシア華人のLillian Chu(リリアン、朱玲蘭)をAIで生成してみました。もし、こんな現代的なバリバリのキャリアウーマンが、1980年代の中国へタイムスリップし、農村の娘に転生したら...... 最近の韓国ドラマや中国ドラマには、いかにもありそうな設定です。

長い髪を左右二本の三つ編みにし、何度も洗濯して色の薄くなった、白っぽい地に細かな薄桃色の模様が入ったシャツを着せてみました。化粧もアクセサリーもありません。背景には古い農家、自転車、竹籠、ホーロー鍋。もちろん、ずいぶんと美人すぎる農村姑娘です。

そんな画像をつくっているうちに、「あ、そうそう」と、昔の記憶がずるずるずる、と浮かび上がってきました。

ぼくは就職したばかりの年の1984年9月から10月、中国の広州にいました。23歳のときです。当時の鉱業所事務所は中国大酒店にありました。開業して間もない、外国人向けの立派なホテルです。ホテルの事務所と宿舎を往復し、ときどき別の外国人向けホテルへ行く。それが基本的な行動範囲でした。

外国人が現在のように気軽に街を歩き回れる時代ではありませんでした。日本人のぼくについては、それほど厳しく言われませんでした。欧米人ほど目立たなかったからかもしれません。休みの日には一人で街へ出て、中山五路あたりの百貨店にも入ってみました。

そこは、外国人向けの友誼商店とはまったく違う世界でした。とにかく、ものすごい人です。売り場にも、階段にも、通路にも人がいます。肩と肩がぶつかり、前へ進むだけでも大変でした。

そして、人の匂いがしました。

汗だけではありません。衣服、生活、食べ物。それらが混ざり合った、何とも表現しにくい人間の匂いです。冷房の効いた現代のショッピングモールでは、もう経験できない匂いでしょう。

友誼商店は、外国人や外貨を持つ人のためにつくられた、整然とした別世界でした。商品はきれいに並び、店内にも一定の秩序がありました。中山五路の百貨店にあったのは、当時の中国で暮らす人たちの生活そのものでした。

改革開放という言葉を、ぼくたちは後から歴史用語として学びます。23歳のぼくには、そんな大きな言葉で理解できるものではありませんでした。ただ、人がものを求めて押し寄せていました。少しずつ商品が増え、人々が自分で選び、自分のお金でものを買う。その巨大な動きが、むせ返るような人の匂いと一緒に、百貨店の中へ噴き出していたのだと思います。書店にも行ってみました。本が並んでいる一方で、なぜかコンドームがそこらじゅうに置かれていました。人口政策や家族計画が人々の生活に深く入り込んでいたことを、若いぼくは書店の売り場で妙に具体的な形で見せつけられました。

 

中国大酒店の向かいには、大きな流花公園がありました。園内には築山があり、その周辺の敷石には、昔の墓石が使われていると聞きました。清朝時代でしょうか、高官の墓石だったという話でした。かつて権勢を誇った人の名が刻まれた石が、いつしか公園の敷石となり、その上を市民が歩いています。歴史というものは、ときに驚くほど無造作に踏み越えられていくものです。

その流花公園で、ぼくと同じくらいの年齢の若い男女をよく見かけました。デートをしていたのでしょう。男性も女性も痩せていました。女性たちは日に焼け、質素な服を着ていました。AIでつくったバリキャリのリリアンのような、化粧品広告に出てきそうな美肌の美女ではありません。楽しそうに笑い合うわけでも、見つめ合うわけでもなく、表情もほとんどありませんでした。現在の若いカップルから想像する「デート」とは、ずいぶん違っていました。

なかでも、いまも強く覚えている光景があります。

公園の石のベンチに、若い男女が互い違いに横たわっていました。頭を反対側に置き、ちょうどシックスナインのような格好になっています。ところが、えっちな雰囲気はまったくありません。二人とも、完全に眠りこけているのです。手を握るでもなく、身体を寄せ合うでもなく、硬い石のベンチの上で、違い違いに向いて眠っています。若かったぼくには、少し不思議な光景に見えました。

いま考えると、二人はただただ疲れていたのでしょう。長い時間働いていたのかもしれません。住んでいる場所は狭く、二人だけで静かに過ごせる空間もなかったのでしょう。ホテルの喫茶店に入り、コーヒーを飲むようなお金もなかったはずです。公園の石のベンチが、二人にとってのデート場所であり、休憩場所であり、誰にも邪魔されない、ささやかな私的空間だったのかもしれません。

抱き合うことよりも、相手のそばで安心して眠れること。あの二人にとっては、それがいちばん自然な親密さだったのでしょう。

 

1984年の中国は、大きく変わり始めた時代でした。深圳は、まだ現在のような巨大都市ではありません。完成した都市へ若者が吸い寄せられていったというより、都市そのものが、農村から来た人々の手で猛烈な勢いで建設されていた時代です。農村から都市への移動には、戸籍制度をはじめ、さまざまな制約が残っていました。人は少しずつ動き始め、広州の街にも農村から出てきた若者たちがいたのでしょう。

彼らは、のちに「改革開放を支えた労働力」などと呼ばれるのかもしれません。そのときの彼らに、歴史を支えているという意識などなかったはずです。働き、食べ、少しのお金を貯め、誰かを好きになり、疲れれば公園の石のベンチで眠る。一人ひとりは、ただ自分の一日を生きていただけです。

あのとき23歳だったぼくは、彼らとほぼ同じ世代でした。ぼくは外国人向けの中国大酒店で働き、彼らは近郊の農村から切符を握りしめて出てきて、大都会広州や建設中の深圳のどこかで働いていました。同じ時代、同じ街、同じような年齢でありながら、暮らしている世界はまったく違っていました。ぼくが流花公園を歩いたとき、深圳の赤土の上を車で通り過ぎていた時、彼らの人生とぼくの人生が、ほんの一瞬だけ交差しました。

言葉を交わしたわけではありません。名前も知りません。写真を撮ったわけでもありません。それなのに、40年以上たったいまでも、ぼくはあの二人を覚えています。石のベンチの冷たさまで感じられそうな、あの奇妙な寝姿。何かを訴えるでも、笑うでもなく、ただ眠りこけていた若い男女。

1984年にぼくと同じくらいの年齢だったなら、いまはもう60代半ばです。あの二人は、その後、結婚したのでしょうか。まったく別の人と人生を歩んだのでしょうか。仕事を変えたかもしれません。広州を離れたかもしれません。経済発展の波に乗って豊かになったかもしれませんし、国有企業の改革や街の再開発に翻弄されたかもしれません。

子どもを育て、いまでは孫がいるかもしれません。孫にスマートフォンの使い方を教えてもらいながら、「最近の若い者は」と言っているかもしれません。自分たちは若いころ、公園の石のベンチで、あんな格好をして眠りこけていたのに。

幸せに暮らしていてほしいと思います。あの時代を、身体一つで生き抜いた人たちです。

若かった彼らには、現在の広州や深圳の姿など想像もできなかったでしょう。高層ビルが立ち並び、地下鉄が走り、人々がスマートフォンで買い物をし、世界中の商品が簡単に手に入る街になるとは、夢にも思わなかったはずです。自分たちが40年以上も後に、名前も知らない一人の日本人から、「みんなどうしているのかな」と思い出されていることも、知るはずがありません。

AIでつくった、現代のリリアンとタイムスリップ朱玲蘭。

色白で、美しく、清潔で、どこか現代的なリリアンは、1984年の広州でぼくが見た農村出身の娘たちとは違います。1984年の朱玲蘭もAIで作ってみましたが、当時の現実の彼女たちはもっと痩せ、もっと日に焼け、もっと疲れていました。

朱玲蘭の姿をつくっているうちに、その現実の彼女たちが、ぼくの記憶の底から次々に浮かび上がってきました。人であふれた百貨店。汗と生活が入り交じった、不思議な人間の匂い。書店に並べられたコンドーム。中国大酒店と、その向かいの流花公園。古い墓石でつくられた敷石。そして、石のベンチで互い違いに横たわり、無表情のまま眠りこけていた若い二人。記憶とは妙なものです。大きな出来事よりも、当時は何でもないと思っていた匂いや姿の方が、何十年も残ることがあります。

あの二人が、いまも元気でいてくれたらいい。子どもや孫に囲まれ、あの石のベンチの硬さなど、すっかり忘れて暮らしていてくれたらいいなあ。


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ゼロ戦かっこいいぞ!

9月上旬、雨がいっとき止んでいたある日の午前中、秋葉原のヨドバシカメラへ行きました。お目当てはファインモールドの「零戦二一型 ソロモン航空戦」です。棚に残っていたのは一つだけ。迷彩を施したゼロ戦が青空を飛ぶ箱絵は、なんとも清々しく、実に格好いい。迷わず買いました。

ゼロ戦といえば、開戦当初は「無敵」と恐れられた戦闘機です。長大な航続距離、優れた運動性能、そして熟練搭乗員の技量。ガダルカナルをめぐるソロモン航空戦の頃から、その「無敵」に明らかな陰りが見え始めます。

日本海軍は日露戦役以来の大戦略として、新興国アメリカを仮想敵とし、本来、太平洋を西へ進んでくる米艦隊を、潜水艦、航空機、水雷戦隊などで段階的に削り、最後に主力艦隊で迎え撃つ「漸減邀撃作戦」を構想していました。

山本五十六は、その構想をひっくり返すように真珠湾を奇襲した。大戦略とは真逆に、日本側からはるか東へ殴り込み、緒戦では大きな戦果を挙げます。その勢いのまま占領地域を広げ、広大な太平洋の島々へ兵員と航空機をばら撒いて行きました。

ゼロ戦の長大な航続力は、本来なら無理のある広大な戦線を、一時的に維持できるようにしたのです。優秀な兵器だったからこそ、戦略の無理が見えにくくなったともいえます。

ミッドウェー海戦後、一夜にして日米の海軍力が直ちに逆転したわけではないとする軍事評論もあるようですね。均衡が本当に決定的に崩れたのは、その後のガダルカナルを中心とするソロモンの消耗戦であったと。

米軍はガダルカナルを足場に、ソロモン諸島を北西へ進みました。飛行場を確保し、次の飛行場を築き、日本軍の航空戦力と海上輸送力を少しずつ削っていきます。日本側は航空機の機体だけでなく、簡単には補充できない熟練搭乗員を次々と失いました。

本来日本海軍は、東から来る米艦隊を西太平洋で漸減するはずでした。ところが、現実には、東から西へ反撃してくる米軍によって、日本の航空隊、艦隊、輸送船、そして島々の守備隊が順番に漸減されていきました。

方向も、主導権も、削られる側も、すべて逆です。

それは漸減邀撃ならぬ米軍による「漸減進撃」でした。米海兵隊が島を奪い、海軍が海を制し、米陸軍航空部隊が島々を拠点として次々と飛来し、日本軍の航空戦力、艦艇、輸送力、守備隊を根こそぎ消耗させながら前進していったのです。

日本海軍が何十年も研究した漸減邀撃を、米軍が日本側に強いる形で実現した。そう考えると、歴史の反転には、なんとも残酷な皮肉を感じます。
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模型の箱絵のゼロ戦は、どこまでも精悍です。迷彩の機体は、澄み切った南太平洋の空を悠々と飛んでいます。

ゼロ戦、かっこいいなぁ!(隼もかっこいいけどね(´ཀ`))

 

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