〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

「ノモンハン 責任なき戦い」NHK 2018.8.15 〜 その5

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 2018.8.15にNHKが放送したドキュメンタリー番組についての「その5」です。

tavigayninh.hatenadiary.jp

 

第一次ノモンハン事件は両軍がほこを収める形でいったん収まりました。ところが....

ソ連軍人事

1930年代、スターリン赤軍の高級将校の大量粛清*1を進めていた。ノモンハン事件勃発当時42歳という若さのジェーコフ*2白ロシア軍管区*3の副司令にまで昇進していました。赤軍の上官たちが粛清され組織がスカスカになったがための若くしての昇進でしたが、自身もまた粛清に怯える毎日でした。

ソ連軍中央は、第一次ノモンハン事件の最終局面でジューコフを呼び出しモンハンの状況を調査し報告させたところ、ジューコフノモンハン戦争に当たったフェクレンコ司令部を徹底的に批判します*4。そこでフェクレンコ が更迭され、ジューコフが指揮を取ることになります*5。現地で戦ったブイコフら将校も更迭されました*6

ジューコフ司令官は日本軍を徹底的に叩く戦争の準備を始めます。部隊の強化増援を行うのです。彼は絶対勝たなければなりませんでした。さもないと自分も更迭され処刑されてしまいますから。ソ連軍中央のはらも決まっています。ジューコフが求めた以上の増援を行うのです*7

とにかくノモンハンでは今度は日本軍を徹底的に撃破するというハラが座っているソ連中央と軍に対して、日本の対応はふらふらと腰が定まりません。

腹案に終わった「ノモンハン国境事件紛争要領」

5月末から6月上旬にかけて陸軍中央参謀本部は「ノモンハン国境事件紛争要領」をまとめます。その要旨は:

ノモンハンの処置は依然関東軍が行う。

・ただし、敵に一撃を与えたのちはすぐに撤退する。

・航空部隊による越境攻撃は厳禁する。

とはいえ、この要領は関東軍には示達されず陸軍中央の腹案にとどまったといいます。この腹案でも、日本が勝つことを前提として、「一撃を与えたら撤退せよ」「空軍は使うな」と初めから勝つことを前提にしています*8

関東軍の作戦計画

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関東軍で辻参謀が中心となって考えた作戦は次のようなものです。

 ・主力部隊と戦車隊を以ってハルハ河を越えて西岸高台に侵入する。上の写真ではハルハ河の「河」の字あたりから左岸高台に侵入する。つまり敵の後方から侵入し、そして高台に並ぶ砲列を蹂躙しつつ南下する。

・主力部隊が西岸(左岸)を蹂躙しつつ南下するのに呼応して別部隊がハルハ河左岸に突出して布陣している敵部隊を殲滅する。

イメージとしてはこんな感じかな。

 

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当初はハルハ河を越えて西岸に進出する主力部隊には関東軍精鋭の第7師団(と戦車部隊)をあて、第一次ノモンハン事件で敗退した第23師団は副主力として左岸の各ソ連/モンゴル橋頭堡を攻撃する作戦が立案されましたが、関東軍長官植田大将の意向(恩情)で、引き続き第23師団小松原中将が担当することになりました*9

陸上軍の兵力は...

日本軍:約22000名

満洲軍:約 2000名

戦車:73輌

装甲車19輌

大砲:124門

   (ウィキペディアを参考にしました。別な数字もあるようです。)

辻参謀は「牛刀*10をもって鶏を割く」ようなもんであると豪語したと言います*11

もっと「小規模」にという横ヤリ反対意見

この作戦はギリギリまで東京の参謀本部には報告されませんでした。反対意見/横やりが入るのを懸念したためです。そんな大軍を送ったら国際問題になるから、そこまで兵力を割くな、もっと小規模にやるべきだという反対意見です。過小な兵力だからあぶなくてダメだから反対するというものではなくて、「関東軍の作戦は大軍にすぎる、強力すぎるからダメだ、反対だ」要するにそういう意見でした。この「そんな大軍を動かすな」という意見が通っていたら、第二次ノモンハン事件では日本側の被害はもっと甚大なものになっていたでしょう。

結局、板垣征四郎陸軍大臣(中将)*12の有名な一言で関東軍立案の作戦計画が承認されます。

一個師団ぐらい関東軍の好きにさせてやれ

ソ連としてはとにかく絶対に勝たなければならない。勝つとは日本軍を徹底的に撃破すること、全滅させることである、と増員増強を進めるジューコフ軍。

対する関東軍も陸軍中央も甘すぎる。「鶏を裂くのに牛刀」をもってすると息巻く関東軍も勝つことが前提だし、陸軍中央も勝つことを疑わず「でば包丁なんか持ってけんかしに行くと刑事事件*13になって大変だよ。素手でスマートに戦って勝て」と考えていたのです。

牛刀/でば包丁で脅せば*14楽勝のはずが、相手は青龍刀、いや、拳銃を準備してこちらを必ず殺すつもりでいた、というところでしょうか。

素手で行かなくてよかったよ。

1939年6月半ばからの航空戦・タムスク戦略爆撃

第一次ノモンハン事件ソ連空軍は大規模な損害を受けましたが、ジューコフは着任と同時に航空兵力の増強と訓練に着手し、再建が進められました。

6月半ばからは、再建なったソ連航空部隊による攻撃が繰り返されていました。日本側の航空兵力もノモンハン・フンボイル地域に進出展開はしていたのですが、行動を自粛していたことと、迎撃戦では決定的な損害をソ連空軍に与えられない状況に苛立ちを感じていました。そこで...

6月27日、関東軍爆撃機と戦闘機による大規模な攻撃をソ連航空部隊の拠点でもあるタムスクに行い、大成果をあげました。

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この越境大爆撃は陸軍中央の方針に反するものであるため、関東軍は陸軍中央に対して事前の連絡/報告なしに実行してしまいます。当然、陸軍参謀本部は激怒。

釈明と反省を求める参謀本部の長文電報に対する関東軍の返事も有名です。

北辺の些事は当軍に依頼して安心せられ度(たし)

実に傲慢、当時37歳の辻政信の得意鼻高々な表情が目に見えるようです*15

 

(続きます。)

 

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*1:地位を奪って殺してしまうこと、または、殺してしまって地位を奪うこと。

*2:その後独ソ戦を戦い抜く鬼将軍。赤軍元帥、国家英雄に登りつめても、フルシチョフとの政争に負け一旦失脚。自叙伝を書いて巻き返した。このしぶとい男の実質デビュー戦が第二次ノモンハン事件であるのです。

*3:白ロシアは現ベラルーシ。今調べてわかったんだけど、「ルーシ」という地方をモンゴル支配の時代に五行思想の影響で白・黒・赤に分けた「白(ベラ)」ルーシなのですと!ブログを書くのは勉強になるね。

*4:批判させるために派遣したんでしょうね。ジューコフもよろしく忖度したのでしょう。さもないと自分が粛清される。

*5:ソ連/モンゴル軍を統括したのはグレゴリー・シュテルン、当時39歳でジューコフより若い。形式上はジューコフの上官に当たる地位ですが、ジューコフとは対立し、パワーゲームでは負けていたようです。ノモンハン後に彼も栄達しますが、独ソ開戦直前に粛清されてしまいます。

*6:そのあと粛清=処刑されちゃったのかな?

*7:もし増援数を渋ったら負けたときの理由のツケが回ってきて粛清されてしまうからだったのかもしれません。希望した以上の増援をもらったジューコフは絶対負けられなかったでしょう。

*8:なんなんだろうこのヨユーブッこいてる態度は。

*9:関東軍内でやりくりした部隊増援補強は行います。

*10:でば包丁みたいなもん。

*11:論語の陽貨篇の「鶏を割くになんぞ牛刀を用いん」にちなむ。つまらないことをするのに大げさな準備をすることはないでしょう、ということ。

*12:当時満54歳。8年前の1931年関東軍参謀時代に満洲事変を首謀する。

*13:国際問題として非難される。

*14:一撃を与えたらすぐ撤退する。

*15:満州事変の時も石原莞爾関東軍は、勝手に張学良本拠の錦州爆撃を行ってお咎めなしの前例もあるしな。満州事変は軍部独走の実に悪いお手本になっている。