〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

「ノモンハン 責任なき戦い」NHK 2018.8.15 〜 その4

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2018.8.15に放送されたドキュメンタリーについての「その4」です。

tavigayninh.hatenadiary.jp

 

 

このドキュメンタリー番組で不思議に思ったことはたくさんあるんですが、そのひとつが、ノモンハン事件を第一次と第二次に分けて扱っていないこと。何か特別な意図があったのかなとまで思ってしまいます。

第一次・第二次ノモンハン事件の概要

1939年5月にハルハ河河岸で始まった戦争は日本側の係争地域からの敗退をもって一旦の区切りをみせる。これを称して「第一次」です。

しかし、ソ連モンゴル側では司令部に重要な人事異動があり高圧的な臨戦態勢を整える。ややこしく事態は緊張感を増していき*1、6月半ばにさらに大規模な軍事衝突が始まり8月末に日本軍のノモンハンからの敗退。これを称して「第二次」です*2

そして9月半ばに停戦協定が結ばれる。

 

もうちょっと詳しくみてみます。

第一次ノモンハン事件

衝突の始まり

1939年5月の初め、少数のモンゴル兵が係争地域に出現したが、満洲国軍と警備隊がこれを追い払いました。以後小規模な衝突が繰り返されたのち、少し大掛かりな、それでも両軍合わせて百数十名程度の軍事衝突があり、モンゴル側はハルハ河西岸に後退し係争地域から撤退した。人数・規模的なものの正確なところはよくわからないけれど*3

そもそものきっかけとなる軍事衝突の規模的なものを番組では規模や詳細など分からないならそれなりに示して欲しかったと残念です。

師団長というもの

今までよりはちょっと大きめの紛争が起こったことで、ハイラル・フンボイル地区を掌管する第23師団の小松原中将は断固とした措置を取ろうと決心しました。小松原道太郎中将、当時満53歳。

番組では、第23師団、関東軍、ひいては陸軍が命令系統に違背してノモンハンで大規模な戦争を始めてしまったような印象を植え付ける説明がされていますが、そうではないと思います。そもそもの師団長の決心そのものに対する疑問や多大な犠牲を強いた作戦の稚拙さはありますが、少なくとも手続き的な瑕疵はなかった。悪名高い満ソ国境紛争処理要綱もその内容や採用の経緯*4は別にして最終的には異議なく採択され通達されたものであり、小松原中将もその要綱の範囲で行動しています。番組では「天皇陛下のご意向」にまで触れていますが、明治憲法下の立憲民主主義の根幹に大きく関わる問題ですよ、ちょっとセンシティブすぎる問題をナイーブにすぎる乱暴な扱い方をしていて、番組をみてハラハラしました。

師団長は命令は受けないのです。意見は聞くけれども決定するのは師団長自身です。日本陸軍の師団長についてのウィキペディアからの引用です

『師団長と師団は、その管掌事項が軍事面に、管轄区域が師管に限られ、軍政および人事に関しては陸軍大臣から、動員計画および作戦計画に関しては参謀総長から、教育に関しては教育総監から、それぞれ区処を受けるものの、天皇直属であるということでは総理大臣及びその管掌する政府と同じであり、師団長の地位は高く、帷幄の機関の長として統帥事項に深く関わる陸軍大臣参謀総長には及ぶべくもないものの、陸軍次官や参謀次長よりは上位であった。しかし師団が増設され数が増えるに従い師団長の地位も次第に低下した。』

第23師団と小松原師団長

関東軍の「後方警備」としてノモンハンを含む満洲西部国境・ハイラルに派遣されたのがノモンハン事件前年1938年に新編成された第23師団です。師団長の小松原道太郎中将は1986年(明治19年)生まれで当時満53歳、事件の最中に54歳になります(7月20日生)。*5 *6

満ソ国境紛争処理要綱と小松原師団長

タイミングの悪いことに、ノモンハンでの国境紛争のために起案されたわけではないとされる「満ソ国境紛争処理要綱」が、1939年の5月なかば小松原師団長の目の前にあった。*7

5月初めから頻発して拡大しているのモンハンを巡っての紛争にこんなにおあつらえ向きなものはなかったでしょうね。まるで小松原師団長のために書かれたかのように、ノモンハン紛争地域の処理のために示されたかのように、最悪のタイミングで処理要綱が通達されました。

第一次ノモンハン事件

・日本側出動部隊

小松原師団長は約220人部隊の出動を決心します(東捜索隊)*8。ところが5月15日にノモンハンに到着してみるとすでにモンゴル軍の大半はハルハ河左岸に撤退してしまっていました。そしていったんハイラルに帰着すると敵軍はまたもハルハ河を渡河し右岸に進出してきたとの情報が入る。そんなもぐらたたきのようなやり方ではラチがあかないとより強力な機動部隊をノモンハンに派遣することを小松原師団長は決心します。山県武光大佐による約1400名*9と連携する満洲国軍約450名です。

航空部隊も小松原師団長に貸与されました。軽爆撃機9機、戦闘機19機ですから一大航空兵力です*10

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・戦闘

作戦:地図の真ん中でハルハ河と交わっているのがホルステイン河。交わる地域を「川又」と読んでいました。東捜索隊がまずは川又に奇襲をかけ、山県部隊は分進して川又を包囲して敵を殲滅する。5月28日の早朝に攻撃を開始する。それが第23師団の作戦でした。一方ソ連モンゴル連合はそれに先立ちハルハ河西岸(高台)に砲兵隊を布陣しており、東岸には陣地を構築していました。

東捜索隊壊滅:先に合流地点に到着した東捜索隊220名は突出してソ連軍前線後方に回り込み善戦するものの*11、山県本体からの援軍は得られず、ついにはソ連モンゴル軍に包囲され壊滅してしまう。東中佐は戦死。東捜索隊に合流するはずの山県部隊約1850名は、ソ連軍の猛攻に阻まれ、丘一つ隣で奮戦する東捜索隊の援護ができずにいた。

退却:捜索隊をからくも殲滅はしたものの、ソ連モンゴル軍が日本側の増援を恐れハルハ河西岸に一旦後退する(5月29日)。そして山県部隊に対して小松原師団長は撤収命令をだす(5月31日)。これが第一次ノモンハン事件です。

日本側損害:東捜索隊220名のうち死傷139名。山県部隊役1850名のうち死傷は151名でした*12。総計すると兵力約2070名。死傷は290名です。*13

 

ソ連モンゴル側出動部隊

出動と布陣:5月はじめから半ばにかけての比較的大規模な*14軍事衝突の情報を得たソ連軍は関東軍よりも先手をうって行動を開始しています。
ザバイカル軍管区のフェクレンコ 将軍*15が戦車/装甲車/自走砲、機関銃隊などを主体とする機甲機械化部隊をノモンハンに派遣することを命じます。
指揮官はブイコフ上級中尉*16、兵力約1050名。約1250名のモンゴル騎兵隊も加えて、総兵力2300名でした。日本側による攻撃開始は5月28日でしたが、ブイコフ部隊はすでにその数日前には、ハルハ河西岸(左岸)の高台に重砲隊を布陣し、ハルハ河を渡った東側(右岸)には防衛陣地を築いていたといいます*17
戦闘:戦闘の過程は上に概述した通りで東捜索隊を壊滅に陥れるのですが、東捜索隊との戦闘ではソ連モンゴル軍側も大混乱で、一時はブイコフ乗車の装甲車が日本軍に捕まりそうになったりと、被害も大きかったといいます。
終結:フェクレンコは日本軍が増強されて再攻撃にかかってくることを懸念し、いったんハルハ河左岸(西側)に戦線を後退させます。その間に、山県部隊は東捜索隊らの遺体や負傷者を回収し*18、小松原師団長の命令を受け日本軍は31日にノモンハンから撤退する。
ソビエトモンゴル軍損害:死傷者総数は369名(一方の日本軍側は290名)。戦車/装甲車も多数破壊されています。打撃力では絶対的に優勢で総兵力にも優っていたものの、ソ連モンゴル側損害は多大だったと言えます。そのため司令官のフェクレンコは6月に更迭されました*19
 
この番組に対する疑問
実は日本軍は勝ったのだなどといいたいわけではないんです。
番組を通して印象深く投げかけられ続けるメッセージ:
ノモンハンでは相手の圧倒的に優秀な兵器や兵力の前に、日本兵は蹂躙されるがままだった」
そんなことは事実と違う。
ノモンハンでの戦争が戦略的に意味のあるものだったかは別として*20、ハルハ河での「小競り合い」を大戦争に発展させてしまった日ソ両軍上層部への評価はこれまた別として、奮戦した日本の兵隊さん*21がたくさんいたわけですから、失礼だと思いますよ。そんなメッセージを発する番組だったとしたら、なぜどんな意図でこの"ドキュメンタリー"を作ったのかが疑問なんです。第一次ノモンハン事件で奮戦しついには戦死した東八百蔵捜索隊長のご遺族やお墓に対して同じことが言えるのかと思います。
 
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 さて、両軍共いったんはホコを納めるのですが、またまた戦争を始めてしまいます。しかももっともっと大規模に。それが第二次のモンハン事件です。
なんでそんなもの始めてしまうの?
 
(続きます。)

 

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*1:両軍共に戦略的空襲なども行なっている。

*2:第二次を二つに分ける考え方もあるみたいです。

*3:5月10日にはモンゴル騎兵約30名が満洲国側に「侵入」し撃退される。翌11日には騎兵100〜200名が「侵入」したがこれも撃退された。国境に日ソ両者の食い違いがある以上、「侵入」した主体がモンゴル軍なのか満洲国側なのかも評価は当然別れます。ソ連モンゴル側にしてみれば、自国領内にいたところを満洲国側が「侵入」してきたことになります。 実はそもそもの始まりの具体的詳細や規模はよくわからないが、多く見積もっても数百名規模の衝突であったろうと思われます。実際には両軍合わせても百数十人前後の衝突かもしれない。

*4:これまた悪名高い辻参謀の意見がそのまま通ったらしい。

*5:小松原中将は事件の2年前に中将に昇進しています。中将在任中4-6年の間にチャンスがあれば大将に昇進することができるその2年目です。また陸軍中将の定年は62歳でした。小松原中将はノモンハンでの敗戦後、1939年に更迭され、翌1940年に死亡。胃ガンが原因とされています。

*6:クックスは「ノモンハン」で言葉を選び、多様な証言を引用していますが、小松原師団長の性格は、真面目、小心、神経質で苦労性、厳格、短気な気取り屋で、厳格な職業観を持ち、命令が実行されたかどうかを確かめる傾向が強かった、そんな性格だったとの印象を受けます。経歴として戦闘経験や部隊経験には乏しかったようです。他方、小松原師団長を支えた師団参謀長は当時46歳の大内孜(つとむ)大佐でした。クックスの「ノモンハン」によると「頭の切れる明敏な知性と、小松原師団長のような将軍を補佐するのにうってつけの円熟した性格の持ち主であった」「温和でさほど負けん気の強い方ではない大内は心が広く、些細なことには拘泥せずに広い物の見方をした」(第1巻p.95)とのことで、小松原からも全幅の信頼を受けていたようです。残念ながら大内は第二次ノモンハン事件に際し、7月に戦死してしまいます。第23師団のハイラル着任は1938年夏ごろ。大内を含め高級将校は皆師団の装備不足を直ちに見破っている。満洲西部では戦車戦・機械化部隊での戦争が予測されるにも関わらず、対戦車兵器は全く不足していた。実際大内は着任直後上級司令部に改善のための意見具申をしている。この番組で大書された「己を知らず敵を知らず」という軽々な批判は全く大内や他の参謀・部隊長に対して失礼ではないかと思います。

*7:その趣旨を繰り返します。

a・国境が不明/不確定な地域では、こちらが自主的に定める国境線に基づく

b・ソ連が国境を越えてきたらこちらが劣勢でも迅速に対応し撃破する

c・その際、こちらが引いた国境線といえ一時的にこれを越えても構わない

*8:東八百蔵(あずまやおぞう)中佐による東捜索隊約約220名(92式装甲車x1、乗用車x2、トラックx12)。

*9:第64歩兵連隊を中心とする部隊約1400名(歩兵800、連隊砲中隊-山砲x3、速射砲中隊-速射砲x4、自動車3個中隊)。

*10:要請は偵察機でしたが、実際は戦闘機と爆撃機が貸与されました。第一次ノモンハン事件期間を通じて戦闘に参加し、航空戦では常に優位を保っていました。しかしですね、基本が「不拡大方針」といいながら、なんで戦闘機と爆撃機を貸してくるのだ?ほんとわからない。

*11:ソ連側は大混乱を来したようです。

*12:クックス「ノモンハン」第1巻p.179

*13:数字の詳細は諸説あるようです。

*14:それでも数百名規模

*15:第57特別軍団長って何?

*16:大尉ぐらいなのかな?

*17:さらに増援部隊も追って到着予定。

*18:それを日本軍の攻撃準備とフェクレンコ は勘違いしたりしたそうです。

*19:更迭後、粛清、つまり処刑されたのではないかと思いますが、よく分からない。

*20:ぼくは意味があることだと思っていますが、それは最後に述べるつもりです。

*21:もちろんソビエト・モンゴル側兵士もたくさんいたわけです。