2018.8.15にNHKが放送したドキュメンタリー番組についての「その6」です。
第二次ノモンハン事件
まずはもう一度ノモンハン事件の位置関係をおさえておきます。
赤い点がソ連/モンゴル軍拠点です。上からボルジャ、サンベース、右に行ってタムスク。
中央の湖、上がフルン湖、下がヴィル(ボイル)湖。
紛争のノモンハンは黄で示しました。
日本軍の拠点「ハイラル」は青の丸のあたりです。
1939年6月30日からの地上戦
紛争地区のノモンハンの地図、地形図です。ハルハ河とホルステイン河、そこが交わる川又。
日本軍の作戦は、こんなイメージでした。
・主力部隊と戦車部隊が、北側でハルハ河を西に渡り、南下して西岸高台に布陣するソ連砲兵部隊を潰す。
・それに呼応して副主力部隊がハルハ河東側(右側)に点在するソ連軍陣地を潰しながら南下する。
ところが...
ハルハ河北側を調べてみると、河が広くて深くて戦車が渡れない、架橋資材も部隊も不十分でした*1。
そこで戦車隊はハルハ河東岸(右)での作戦に従軍することになりました。
6月30日戦闘開始
戦闘は東岸で1939年6月30日に始まりました。
東岸での戦闘に参加した戦車隊も奮戦したのですが、ピアノ線に進行を阻まれたりで損害が大きく、関東軍本部は、虎の子の戦車隊の壊滅をおそれ、7月10日に戦車隊はノモンハンの戦場を離れざるを得ない状況に追い込まれました。
西側左岸への渡河は戦車なしで実行に移され第23師団は小松原中将の陣頭指揮のもと、なんとか成功し、ホルステイン河との合流地点に迫りますが、ソ連戦車隊に阻止されます。ソ連戦車隊も応援の歩兵砲兵なしに攻撃を開始*2、損害を出しつつも日本軍を東岸に押し戻します。
西岸の高台に布陣する砲列が難敵だったので、これを撃破するため、関東軍砲兵部隊も動員されましたが、期待した効果は上がりませんでした。6月30日から始まった戦争は、7月末に至って膠着します。
7月末からの戦線膠着とジューコフの反攻準備
黒が日本軍、赤がソ連/モンゴル軍。だいたいこんな感じで戦線が膠着します。その間にジューコフは必死で部隊を増強します。一方で日本軍の補充は間に合わない。
ソ連/モンゴル側では一時的撤退案もあったようですが、採用はされませんでした*3。ソ連領のボルジア(ボルジャ)まではシベリア鉄道が繋がっています。ボルジアまでの鉄道輸送は想定内、しかし、そこからの兵員・弾薬・戦車/装甲車の輸送は、日本軍、というか、当時の軍事常識をはるかに越え、不可能と思えるものだったのです。
ところがジューコフ*4はその不可能と思われる大輸送をやり遂げました。
とにかくこのソビエト軍の兵站、増強作戦はすごいな。勝敗を決めたのはここでしょうね。
また増強されつつある部隊を日本軍にさとられないように、ジューコフは日本の戦国武将さながらあの手この手で日本軍を欺き続けます*5。他方日本軍も増派を計画しましたが、十分に実行することができませんでした。
8月20日からのソ連軍攻勢から停戦へ
7月末から3週間かけて部隊を増強したジューコフは、8月20日、反攻を開始します。大量の機械化戦力を一気に投入することによって日本軍を分断、包囲殲滅するというものでした。イメージ的にはこんな感じかな。
20日早朝にソ連/モンゴル軍の総攻撃が始まり、10日後の8月末には第23師団は壊滅、その後、日本の増援部隊の抵抗もあったものの、約2週間後の9月6日に関東軍長官植田大将の命令により日本軍の攻撃は停止することになりました。
停戦協定が締結されたのは9月15日、ノモンハンの国境が協定により確定するのは実に2年後1941年10月のことである。
第二次ノモンハン事件の戦闘の詳細については、クックスの「ノモンハン」を読んでみてください。ハルハ河、ホルステイン河、北からフイ高地、バルシャガル高地、川又、ノロ高地、この辺の位置関係を頭に入れて読むと、細かい記述も良くわかるかもしれません*6。両軍とも実に凄絶な戦闘を行っていることがわかります。
両軍の動員数と損害
ソ連モンゴル側の損害は戦後長期間にわたり少なめに公表されていたのが、グラスノチからソ連崩壊を気に新しい資料が公表/発掘され、従来よりもかなり大きな損害をソ連/モンゴル側も被っていたことが明らかになってきました。色々議論もあるところなので、概数を示します。
日本側:兵力約25000人(損害18000人)、損失戦車 30輌、損失航空機170機
ソ蒙側:兵力約55000人(損害26000人)、損失戦車400輌、損失航空機250機
これに基づいて兵力だけでいうと日本側の損失は約72%、ソ連モンゴル側は約47%です。
停戦後の処分・日本側
「責任なき戦い」だったのか?
NHKの番組では日本軍の第一線の部隊長が強制的に自決(自殺)させられたのにも関わらず、辻参謀を始め「首謀者」たちは何ら責任を取らずに終わったような印象を与えるものでした。だから「責任なき戦い」という副題がついているのでしょうね。
関東軍司令長官の植田謙吉大将、第23師団長小松原道太郎中将、それぞれ予備役、つまり退任しています。そのほかの要人関係者にも処罰も降っています。辻参謀も左遷です。甘い処分であるとの評価もありますが、当時37歳の少佐ですから、彼の意見に引きずられていた上層部により大きな問題があるとそのときには考えられて左遷処分にとどまったのはそこまで無責任な処置とも思われません*7*8。参謀本部でも参謀次長*9、作戦課長稲田正純大佐が左遷です。小松原中将は世論に随分叩かれたようです。当たり前か。乃木大将だって家に石を投げられたりしたんだもの。*10
とはいえ、以上のような公的な事後処理だけではなく、ノモンハン事件参戦当事者への非公式な冷遇/処遇は相当なものだったようです。他方で左遷されたはずの辻参謀たち少壮将校がその後一線に復帰していることを考えると、公平さを欠く処遇であったとも考えられます。
ともあれ、一線の部隊長への自決の強制はひどいなと思います(ソ連の粛清よりはマシか。同じかも?)。
停戦後の処分・ソ連/モンゴル側
よくわかりません。少なくともジューコフは、日本軍に比べて大兵力で挑んだにせよ被害が大きかったという責任を辛くもかわし続けて、翌1940年には上級大将*11に昇進し、ソ連で最大規模のキエフ軍管区の司令長官に任命されますので栄達と言っていいでしょう*12。
国境線確定
停戦から2年近く経過した1941年10月15日、長く数次にもわたる交渉の末、国境線が確定します。ホルステイン河流域の紛争なった地域はほぼソ連側の主張通りであり、クックス「ノモンハン」によれば、日本はメンツを失わない程度の調整を受けているということです*13*14。
なぜ2年もかかったのか? いろんなことがあったのよ。ともかくもノモンハンでの戦闘は終わったんだ。日本もソ連も、そして世界中が大変なことになっている。
ノモンハンの国境?それどころじゃないよ。
ノモンハン事件以後の世界の情勢
<1939年>
・5月 第一次ノモンハン事件
・6-8月 第二次ノモンハン事件
・8月23日 独ソ不可侵条約
・9月1日 独ポーランド侵攻(第二次世界大戦始まる)
・9月14日 ノモンハン停戦協定
・9月17日 ソ連ポーランド侵攻→独ソポーランドを分割占領
・11月 ソ連フィンランド侵攻(冬戦争)→ソ連国際連盟除名
<1940年>
・4月13日 日ソ中立条約
・6月 独フランス占領(パリ陥落)
・9月27日 日独伊三国同盟
<1941年>
・6月22日 独対ソ開戦(不可侵条約破棄)
・6月28日 スターリングラード攻防戦始まる(〜43年2月2日)
・10月15日 ノモンハン国境線確定
・12月8日 太平洋戦争始まる(日本はハワイ・マレー半島・フィリピン攻撃開始)
・同日 ヒトラーはタイフーン作戦(モスクワ攻略)を事実上断念
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*1:ちゃんと調べておけよ。てか、戦車部隊起用というのもドロナワで決まったらしいです。
*2:歩兵・砲兵の共同のないままの戦闘は戦車にとってとっても大変に危険なもの。
*3:一時的な撤退案はモスクワの陸軍省(軍事委員会)の要人からの提案でしたが、受け入れることは粛清されることを意味したのでしょう。ジューコフはそんな裏のある撤退提案をはねのけました
*4:というかジューコフの形式上の上官で後方を担当していたグレゴリー・シュテルン司令官が輸送作戦に関わったらしいです。1941年に粛清される。死後1954年に名誉回復。
*5:偽情報を流したり、戦車/装甲車のエンジン音キャタピラ音を隠すために大音響で音楽を流し続けたり、移動は夜間に限ったり、日本軍兵士を消耗させ眠らせないためにサーチライトで照らしたりとからしい。ホントか?
*6:第一次のモンハン事件で東捜索隊の救援に失敗した山県大佐部隊もバルシャカル高地で奮戦し大佐も27日に自決した。
*7:『うちの会社では、組織や階層、肩書きにこだわらない、若手でも意見はどんどん採用しますよ。むしろ、組織の論理にとらわれず、自由にのびのびと自発的にやってもらいたい、若手にはどんどん積極的に活躍してもらいたいと思ってるんです。向こうずねにキズを負ったって構わない。過去の失敗を責めるのではなく、またチャンスを与えたいですね!』そんな会社があったらどうだろう? いい会社だな、活気がありそうだ! 働きたいな、自分の力を試してみたい。そう思いますか?じゃあ、「うちの会社」を「帝国陸軍」に置き換えたとしたら?
*8:とはいえ、その後の辻の戦争への悪影響を考えるとこのとき軍隊をクビにしてもよかったかも?それはそれで変な動きをしたかも?わからんですね。ともかくも辻をその後の重要作戦に起用するなんてダメに決まってると思うけどな。
*9:総長は皇族のお飾りですから。
*10:ノモンハンでの大損害は当初は隠蔽されそうになりましたが、ここまでの被害を隠しおおせるはずもなく、戦記「ノロ高地」なども出版されベストセラーになったことから、陸軍も損害18000人を公開しています。
*11:将軍の一番上、その上は元帥。
*12:その後ジューコフは必死でヒトラーと戦い、ベルリンを落とすのはソビエトに譲れと命じられたアイゼンハワーが歩調を落としたおかげで、ヒトラーを殺して「ヨーロッパを解放」します。戦後は政争に勝ったり負けたり、一時は歴史からその名前が抹殺されるほどの冷遇を受けましたが、何とか粛清だけは免れ、フルシチョフ失脚後に出版した回顧録はソ連国民を熱狂させ、名誉を回復することができました。その死は1974年6月18日、ノモンハン事件から35年後のことでした。
*13:クックス「ノモンハン」第4巻 p.201
*14:日本/満洲国が獲得した面積を理由に領土獲得の観点からは日本側に有利にまとまったと考える意見もあるそうです。