〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

「ノモンハン 責任なき戦い」NHK 2018.8.15 〜 その7・結

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2018.8.15にNHKが放送したドキュメンタリー番組についての「その7・結」です。

tavigayninh.hatenadiary.jp

 

ノモンハン前後の世界

まじで嫌な時代だな。よく地球がぶっ壊れなかったと思う。

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歴史は続いているんだ。

アヘン戦争があって、明治維新があって、日清日露の戦争があって、辛亥革命があって、第一次世界大戦が始まって、大戦争中にロシア革命がおこって、日本はシベリアに出兵して、第一次世界大戦が終わる。

そして...

・1924年スターリン体制始まる

・1924年モンゴル人民共和国成立

・1926年12月25日昭和元年

・1929年世界恐慌

・1930年昭和恐慌

・1931年満州事変

・1932年5.15事件(日本海軍将校反乱)

・1932年12月ソ連提案の日ソ不可侵条約を日本は拒否

・1933年1月ナチス政権獲得

・1933年2月日本国際連盟脱退

・1935年ドイツ再軍備

・1936年3月ソ連モンゴル相互援助条約(ソ蒙対日同盟)

・1936年2.26事件(日本陸軍将校反乱)

・1936年6月徳王による蒙古軍政府(関東軍内モンゴル工作)

・1936年日独防共協定

・1937年盧溝橋事件(日中戦争)

・1938年張鼓峰事件

<1939年>

・3月ドイツによるオーストリア併合・チェコ占領(保護国化)

・5月第一次ノモンハン事件

・6-8月第二次ノモンハン事件

・8月23日 独ソ不可侵条約

・9月1日独ポーランド侵攻

・9月3日英仏対独宣戦布告・第二次世界大戦始まる

・9月14日ノモンハン停戦協定

・9月17日ソ連ポーランド侵攻→独ソポーランドを分割占領

・11月ソ連フィンランド侵攻(冬戦争)→ソ連国際連盟除名

<1940年>

・3月ソ連フィンランドより領土割譲

・4月13日日ソ中立条約

・5月独オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ侵攻

・5月ダンケルクで英軍欧州大陸より敗退

・6月パリ陥落

・7月バトルオブブリテン始まる(〜40年10月)

・8月ソ連バルト三国併合*1

・9月27日 日独伊三国同盟

・10月バトルオブブリテン終わる(ドイツは英本土上陸作戦中止)

<1941年>

・6月22日独対ソ開戦(不可侵条約破棄)

・7月28日 日本北部仏印進駐(南進・南方侵略開始)

・9月8日独レニングラード攻撃開始(〜44年1月18日まで)

・10月15日ノモンハン国境線確定

・12月8日日本、ハワイ・東南アジア攻撃開始(対英米蘭開戦)

・同日 ヒトラーはタイフーン作戦(モスクワ攻略)を事実上断念

・12月末 ジューコフによるモスクワ反撃戦本格化

<1942年>

・6月5日ミッドウェー海戦、日本海軍敗退

・6月28日スターリングラード攻防戦始まる(〜43年2月2日)

・7月/10-11月エルアラメインにて独伊軍アフリカより敗退

・8月(〜翌2月)日本、ガタルカナル島で敗退

・11月19-23日 ジューコフはスターリングラードを逆包囲/ソ連の対独反攻が本格化

<1943年>

・2月2日スターリングラードで独軍敗北

<1944年>

・6月6日連合軍ノルマンディー上陸

・7月9日サイパン陥落

 ++++++++++

さて、ノモンハン事件の勃発した1939年昭和14年に話を戻す。

 

ノモンハン事件のまとめ

満洲国国境紛争

1930年代になると満洲国の国境紛争が頻発して、統治する関東軍はピリピリしていたらしい。満洲国が日本の傀儡なら、外モンゴル=モンゴル人民共和国はソビエト連邦の傀儡。内モンゴルは中華民国だけど、モンゴル人の自治問題を抱えていた。*2

ソ連としては、モンゴル人が日本=満洲と手を組んで、ソ連傀儡政府に反旗を翻しては困る。

でもさ、満洲国自体が日本とソビエトとの緩衝地帯でもあったわけだから、その観点から「国境」とか「紛争処理方針」を考えてもよかったんじゃないのかな。あんまりピリピリしない方がいいんだよ。バンパーの傷なんて気にしないほうがいいんだ。みんなわかってたんだろうけどね。それでも気になっちゃう人もいる。

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ノモンハン地区の「国境」

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日本はハルハ河を国境だといい、ソ連はもっと東(右)側の線だという。どっちだっていいじゃない。特に資源があるではなし。日本の主張の根拠は実は「なんとなくこうなのかな?」ぐらいのあいまいなものだったようだ。いい加減なことをする地理学者には困ったもんです。

ところが日本側はそんな適当に引いた線を「正当な国境線である」と思い込んでいたし、関東軍はそれが侵されることにピリピリしていた。

侵入者は直ちに叩き出したいし、一方で紛争は拡大したくない。

そんな都合のいいことを考えていた。そしてその方針を関東軍の各司令官に正式に伝えた。「拡大したくない」が本音だったんだろう。でも「相手にするな・戦うな」とは言えない(軟弱と思われて斬り殺される)から「一撃で叩き出せ」と勇ましいことを言ったんじゃないかな。「一撃しろ、拡大するな、そこんとこよろしく忖度してくださいね」そんな意味だろう。

軽率で過敏な始まり

始まりは、モンゴル人民共和国の警備兵の「侵入」だった。ハルハ河を渡って東岸に「進出」してきた。彼らにしてみれば「自国」の領土だもの。しかし、国境問題があることは当然知っていたはず。挑発でなかったとしたら、このモンゴル警備兵の渡河はすごく軽率な行動というべきでしょう。

これに対して日本側の担当する師団長(小松原道太郎中将)は過敏に反応してしまった。小松原師団長は、真面目なだけで要領の悪い人だったんじゃないかな。戦闘経験の少ない人だったから、「オレもやれる!」と証明したかったのかもしれない。

問題のモンゴル警備兵は当初は700人とかの報告はあったらしいけど、すわ!といきり立ってみると、実のところはせいぜい多くて百数十人だったらしい。小松原師団長はそれに対して、220名の軍隊を送り込んだ(東八百蔵中佐率いる捜索隊)。そしたらモンゴル警備兵はハルハ河の向こうに逃げてしまったのでからぶりで戻ってくる。

 

ここまでは、まあ、仕方がない。

 

そしたらまたハルハ河に侵入者あり!との連絡が入って、小松原師団長は、もっと大部隊で徹底的にやろうと今度は1850名の兵隊を送りこむことにした。

さすがに関東軍本部も、「やめといたら?ハイラルの駐屯地でドーンと構えておけばいいじゃない?やめときなよ?」と肘で小松原中将の脇腹をつつくけど、「オレは師団長だし、オレが決める。部隊経験、戦闘経験が少ないからって、オレが負けると思ってんのか!バカにするな!」と意地を張っちゃって、220名の捜索隊と1850名の本隊、合わせて2070人弱の兵隊をノモンハンに送り込んでしまった。

これが過敏な軽率さだよ。モンゴル警備兵の軽率と小松原師団長の過敏、軽率の過敏です。

「わしらが行ったら逃げて行きよった!わっはっはっ! またでたか?出て行けば逃げよるだけじゃ。こっちも腹が減るだけじゃ。すておけすておけ、わっはっはっ!!」とドーンと構えておけばよかったんだ。新設の自分の師団を少なくとも後1-2年鍛えに鍛えて、兵隊を練りに練って、本当にソ連/モンゴルが彼らの主張する国境を越境でもしてきたらそこで叩き潰せばよかったんだよ。

モンゴル・ソ連側の事情

21世紀の現在も内モンゴル自治区の独立問題を抱える中華人民共和国とモンゴル国の国境は、民族問題やら経済問題やらでとてもややこしい。ソ連の傀儡国家「モンゴル人民共和国」ができたての当時はもっとややこしかったのかな。同じかな。

さらにソ連が世界初の社会主義共産国家ということで、ヨーロッパ中の国からソ連は敵視されている。スターリンは政敵トロツキーを追いやったばかりだし*3、まだまだソ連内部でも何が起こるかわからない。疑心暗鬼の独裁者は赤軍の将校司令官たちを粛清しまくっている。

スターリンが何を考えていたはわからない。でも...

1. ヨーロッパでの地位と領土を戦争で勝ち取って行くためには、東の満洲がうっとうしい。どのくらい強いんだ?今のうちにソ連の強さを見せつけておこうか?こっちにスキがあったらシベリアに攻め込んでくるか?シベリア出兵の例もあるぞ。

2. せっかく作ったモンゴル人民共和国政府を日本はひっくり返すつもりなのか?内モンゴルで変な動きもしてるな。関東軍も謀略が得意だ。

3. モンゴルやソ連が戦闘に負けたら、ソ連国内の反スターリン体制勢力が活気つくのじゃないか?トロツキストが殺しにくるだろう。

4. 局地戦とは言え満蒙国境で敗戦したら盟友モンゴルのチョイバルサンの失脚に繋がるのでは?

5. よく考えたら、ノモンハンとはソ連の東方進出の正面ではないか!

6. ヨーロッパが先か?東方が先か?

そんなことを考えていたんでしょう、多分。あるいはスターリンはそう思っているだろうと部下たちは忖度したのかもしれません。 

第一次ノモンハン事件(1939年5月28日〜31日)

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200名の先遣隊、続く本隊の1850名がノモンハンに向かってみると総兵力役2300名のソ連/モンゴル連合軍が戦車や装甲車を動員して待ち構えていた。ハルハ河西岸の高台には重砲を並べているし、東岸にはすでに陣地が構築されている。

先遣隊220名が包囲され、殲滅される様子を1850名の本隊はすぐ間近で見ながら救援することができなかった。本隊も150名ほどの死傷者を出だす。合わせて死傷者は約290名。

ソ連モンゴル側の損害も大きく、戦車装甲車も多く破壊され、一説によると2300人のうち370名ほどが死傷したという。

これで終わればよかったんですけどね。もう終われない、終わらせてくれないの。

ジューコフ登場

ソ連軍中央は、東の辺境で起こっているもはや「小競り合い」とは言えない戦闘の様子を、今の所は粛清をまぬがれて若くして昇進している将校に視察するようにと命じた。その将校がジューコフである。当時42歳。ジューコフは現地で戦闘を指揮した司令官たちを徹底的に批判する。

全然なっとらん。無能な指揮官のせいで人民の軍隊の損失は多大だ。そのくせ敵を殲滅できていない。生き残った日本兵も沢山いる。司令官の責任は犯罪的だ。

そうモスクワに報告する。おかげで司令官たちは更迭され粛清されてしまう。

もしジューコフが「ソ連モンゴルも良くやったけど相手も強かったんです。こっちも損害が沢山出ましたが、一応、日本軍を追っ払ってますし」なんて報告したら、ジューコフが粛清されてしまいますよ。 ジューコフはその後ドイツとの戦争を主導し、戦後も政争を繰り返し山あり谷ありで生き残り有名になるけど、ノモンハン戦が実質的な歴史デビューですね。*4

モスクワ中央は、ジューコフともう一人少し若い司令官(グレゴリー・シュテルン)をペアにして*5ノモンハンに送り込み、戦争の準備をさせる。ジューコフは大部隊の派遣を要請する。本部兵站部は要請以上の兵力を送り込む。準備段階で要請に応じられなかったら敗戦の責任を負わされるもんね。多めに送っておけば、負けても兵站部の責任は問われないもん。

中央参謀本部の方針とタムスク戦略爆撃

関東軍に妙に積極的な動きをされると国際的にも非難されよろしくないと、陸軍中央は懸念する。

・侵入されたら一撃を与えて深追いはするな。

・航空機を使用した越境攻撃は厳禁。

まだソ連軍が弱いと思っている。第一次ノモンハン事件での戦闘の結果は、小松原師団が未熟だったからだと思っている。

さらに上のような方針をまとめるにはまとめるが、中央参謀本部の「腹案」として関東軍に示すことはしない。無責任ですよ。後出しジャンケンをしようとするずるさも深読みできる。

一方でノモンハンではソ連空軍による攻撃がちょいちょいと続いて、日本の航空隊も迎撃するのだがなかなからちがあかない。

そこで関東軍は大規模な航空兵力を出動し、ソ連の拠点のタムスクへの越境戦略爆撃を実行する。効果絶大。

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これには東京の参謀本部もびっくり。

他国領土への戦略爆撃は関東軍の独断で許されるものではない。陛下の裁可も経ていない。越権行為も甚だしい!

東京から新京の関東軍に激怒の電報を送るものの「こんな辺境の小競り合いはこっちに任せてガタガタ言うな!」とやり返されてしまう。

どっちもどっちだよ。

戦争をしない(不拡大)なら徹底的に戦争するなと命じるべきでしょう。戦争をするならするで味方が損耗しないように一番効果的な方法で攻撃すべきでしょう。

スマートに一撃して、相手に「参りました!」と言わせろって、それは無理だ。

第二次ノモンハン事件前半・1939年6月

関東軍は今度は大作戦、二万人以上で戦場に向かう。そしたら向こうも大軍だった。どちらもこれだけの軍隊で行けば、一撃で相手を撃破殲滅できると思ってたんだろうな。

結果は両軍奮戦して戦線は硬直する。

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第二次ノモンハン事件中盤・ソ連軍の大増援

戦線が膠着している間に、ソ連軍は大増援を行う。ボルジアまではシベリア鉄道で、ボルジアからはトラック輸送を実行した。

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このトラック輸送は当時の常識を超えるものだったので日本軍もまさか!とびっくりしたらしい。

けど甘いよね。ボルジアが兵站の拠点なら、空襲して破壊するとか、シベリア鉄道を工作破壊するとか、関東軍は鉄道破壊が得意なんじゃないの?

ノモンハンで戦線が膠着しているなら、タムスク爆撃を反復継続してもいいじゃないか?

タムスクまで長駆戦略爆撃を行なったことで激怒した陸軍中央。関東軍も自粛したのかな。「辺境の小競り合いはこっちに任せろ」と豪語した割りには辻もやっぱり甘い。

第二次ノモンハン事件後半・1939年8月20日から

3週間の間に常識はずれの大輸送作戦を巧妙に隠匿して実行したジューコフは、大量の機械化部隊を一気に投入し、日本軍をほぼ殲滅せしめる。それでも日本側は数倍の敵の攻撃に10-14日間は持ちこたえたし、相手にも大損害を与えている。一部では抵抗して残っている部隊もいた。強いんだよ、本当に強いと思う。

関東軍司令長官植田大将は9月15日に停戦を命じる。

 

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日本側:兵力約25000人(損害18000人)、損失戦車  30輌、損失航空機170機

ソ蒙側:兵力約55000人(損害26000人)、損失戦車400輌、損失航空機250機

 

日本側の損失は約72%、ソ連/モンゴル側は約47%。

停戦は9月15日だったが、国境が確定して協定書が結ばれるのが2年後の1941年10月。

 ++++++++++
 

ノモンハン事件について思ったこと

無意味な土地だったのか?

土地自体には意味はなかっただろう。しかしモンゴルの民族問題があって、中国(内モンゴル)、満洲国(五族協和でモンゴル人多数)、モンゴル人民共和国の国境が錯綜する場所であり紛争が生まれやすい場所ではあったと思う。
それとソ連にとっては、東方進出の正面だったし、逆に言うと、日本の北進の正面でもあった。
ピンポイントで「ノモンハン地区」である必然はなかったかもしれないが、満洲の西部国境はいつ小競り合いが大戦争に発展してもおかしくない場所だったと思う。
ここを軽視していた日本、陸軍、関東軍は甘い。けど割くべき十分な兵力もなかったのでしょうね。中国と戦争始めちゃったし。*6
 

無意味な戦争だったのか?

きっかけはモンゴル警備兵の軽率な行動と、小松原師団長の浅慮から始まった戦争ではあると思います。でもね、ソ連側に東部(満洲からすれば西部)国境で日本と何かあったら徹底的に叩き潰すと言う意思があった以上避けられないですよ。ノモンハンであるとは限らない。でも西部国境で何かが起こっていたと思う。
・中国と戦争を始めた日本はどのくらい本気でソ連と戦うか?
・日本軍の練度は?武装は?
・ソ連がヨーロッパに集中したらそのスキに日本は北進してくるだろうか?
・日本の北進に備えるためには、どのくらいの兵力を東方においておく必要はあるだろうか?
そんなことをスターリンは知りたかったんだと思う。
だから関東軍がノモンハンでソ連に相当の損害を与えたことで、ソ連は日本に対して大きな警戒を抱き続けることになる。容易に手を出してはいけない相手だと警戒したはずだ。戦争を仕掛けて領土をぶんどるようなことを安易に始めてはいけないと身にしみたはず。だからノモンハンでの敢闘は意味のない戦いであったとは思わない。

相手を知らない無謀な戦いだったのか?

ソ連やモンゴルは弱いと思い込んでいたのかな? 「一撃したら撤退しろ」とか第一次のモンハン事件で一撃されちゃったのにまだ言ってるし。
相手を知らないのではなくて、理由なく相手を見下していたのですな。日露戦争であれだけ苦労したのにね。ロシア革命で弱くなったと思い込んでたフシがある。ロシア革命のどさくさでシベリアに出兵して、もう少しでチタやイルクーツクをぶんどっちゃうつもりだったし。帝制ロシアと違って共産赤軍は弱いって思ってたのだろう。なんでそんなに夜郎自大になっちゃったんだろうな。

日本軍は旧式な武器しか持たず、ソ連/モンゴルは強力な兵器で武装していたのか?

確かに三八式歩兵銃は明治38年の採用で一発撃ってはボルトをガッチャンと引いて装填して撃つと言う小銃だけど、そんなに時代遅れのものでもない。ソ連/モンゴル軍の小銃も似たようなもんだったらしいし。ソ連よりも数は少ないけどちゃんと大砲も持って行ったし、対戦車速射砲はソ連の戦車に対して有効に攻撃を行っている。日本軍の航空部隊には新鋭機が配備されていたし、日本軍の戦車だって最新式のものも動員されています*7

ノモンハン事件は国民に語られなかったのか?

これだけの被害を被ったんだから隠そうとしても隠せない。そのうち「ノロ高地」(1941年)をはじめ戦前にも「ノモンハンの戦いはこうだった」を書いた本が出版されてベストセラーになったもんだから、帝国陸軍としては珍しく日本の損害、死傷18000人を公表した。
 
ぼくは20年ぐらい前「ノロ高地」の古本をもらって読んだ。かなり苦戦する話です。そしてそれが戦前に出版されていたことを知ったときはびっくりした。 隠されていたとばっかり思い込んでいた「ノモンハンの凄絶な戦い」の話は、本まで出版されていて、日本人にはちゃんと広まっていたんだと知って驚いた。

どっちが勝ったのか?

「ノモンハンでは日本兵は逃げまとい蹂躙されるがままだった。屠殺場のようだった」
それは全く違う。第二次のモンハン戦争のときにはよくあれだけの兵力差があっても持ち堪えたもんだ。それどころかソ連/モンゴル軍に多大な損害を与えている。もちろん損害の絶対数で勝敗が決まるわけではないです。
 
事件を観戦している外国人記者もいたりしてかなり「不正確」な記事が配信されたりもしたらしい。どちらかといえば日本の方がより「積極的」な広報/宣伝活動を行っている。とはいえ...
 
と言うかですね、なぜ第一次のモンハン戦争とは比べ物にならない損害を被りながらジューコフは「勝った」と言い続けることができたのか?ジューコフは粛清をおそれたのだろうし、できれば栄達も望んだのだろう。それにしても、スターリンは損害はしっていたはずだ。ソ連の独裁者は3万人にも届かない死傷などは全く意に介さなかったのだろうか? 日本軍をほぼ全滅に追い込んだことでよしとしたのか?なぜスターリンはジューコフを粛清しなかったのか?ジューコフのノモンハン戦争に対する批判はちゃんとあった。ジューコフは批判を辛くも交わしているが、結局はスターリンが彼を粛清することに「ニエット」だったんだろう。なぜか?ジューコフの粛清はノモンハンでの結果が否定的なものであることを意味するからできなかったんだろう。
日本軍の大半はやっつけたんだ。こっちの損害も大きかったようだがそれは隠しておけばいい。こっちの損害はたかが3万人だ。もちろん公表する数字はもっとずっと小さくしておくよ。ジューコフの粛清などいつでもできる、ジューコフのことは帝国主義の愚かな日本軍を破ってハルハ河戦争の勝利者のシンボルとして持ち上げておこう。ドイツ戦で使って、失敗したら粛清すればいいだけだ... そう考えたのだろうか。
 
さて、今度は日本軍の方だ。なぜ「ノモンハンで大敗した」と参謀本部では評価したのか。もちろん一個師団が壊滅して18000人の死傷だもの。ただし、政治的な配慮もあったのではないかな? これはソ連と逆だ。勝ったとまでは言えないかもだが、「善戦した」とでも評価したら、関東軍やあの生意気な辻がますます増長する。「牛刀で鶏だと?バカを言うな。鎧袖一触どころかコテンパンにやられたんだ、陸軍建軍以来の敗北だ...!」 そう言って、関東軍にバツをつけたい、辻を官職に追いやってしまいたい、そんなパワーゲームもあったのかもしれない。
実は「善戦した」とちゃんと評価する意見もあったのですね。でも、批判勢力の方が強かった。
 
勝ったと言いたいソ連側、バレちゃったんだから、いっそのこと「負けた」と言いたい日本側、利益が一致したのかもしれない。それが信じられて、戦後ずっとながく誤解が続いたのではないだろうか。

責任なき戦いだったのか?

関東軍でも東京の参謀本部でも関係者に対する処分は行われている。左遷にとどまった辻に対する処罰が甘すぎると言う意見も当時からも今もあるけれども、その時点では甘すぎるものでのないと思う。それでも一線の部隊長などに対する自決要求は気の毒すぎる。小松原師団長自身だって自決していないし。ソ連じゃないんだからね、自主的な粛清を強制してはいけないよ。
 
一番の責任は、満洲の国境紛争対処方針をきちんと示さなかった東京の参謀本部にあると思う。だから関東軍に先に処理要綱を起案されてしまう。
不拡大方針なら、不拡大と参謀本部の責任で「戦争はするな」とはっきり言うべきだ。そんなこと言ったら一部の積極派からのテロで殺されるのが怖かったのじゃないかと勘ぐってしまう。
戦争を認めるなら、徹底的にやる・やらせればいい。航空機の戦略爆撃も含めて許せばいい。1939年7月-8月にかけてのソ連軍の大輸送作戦は、ボルジャを爆撃するかシベリア鉄道を破壊すれば阻止できたでしょう。そうしたら戦線硬直のまま9月10月、冬を迎えて、双方撤退ですよ。
中途半端なんだ。参謀本部が中途半端だったから、ノモンハンで18000人もの兵隊が傷つき死んで行ったんだと思う。
 
さらに言うと、統帥権干犯の問題などを看過して軍部の独走を許し、軍部をきちんと抑えることができなかった政治や官僚、侍従高官たちにも大きな責任がある。昭和初期の軍部などのテロは本当にひどいけどそれに怯えていたんだろうか。

ノモンハン事件の教訓はその後何も生かされずに終わったのか?

生かされた教訓もあれば、生かそうとしてもできなかった教訓もあると思うよ。例えば、十分な兵力や装備を整えてから戦うべきだっていくら言ったって、無い物は無いし、敵はやってくる。
 
思うんだけど、相手をバカにしているとか、甘くみるとか、それとは違うことなだけど....
 
・相手にスパン!と一撃を与えておいてスマートに勝つ。
・精密で複雑な巧みな作戦をたてて、智謀を持って相手に勝つ。
・戦うなと言いながら戦いを命じる、または、
・戦いを命じながら戦うな、という。
 
そんなことは無理なんだと思う。その教訓が生かされなかったのは本当に不幸だと思う。怯懦と言われようが、好戦的と非難されようが、責任をとって決断する人間が必要で、それは現場指揮官や少壮参謀レベルの話ではなくて、軍や政府のトップの責任だと思う。

最後に・その後の日本の外交/対外政策

その後の日本の外交・対外政策をいまの目で見てみると、わざと日本が滅びるような行動をしているとしか思えない。ノモンハンでの教訓とかではなくて、それ以前の問題のような気がする。これだけ全部を最悪のタイミングで裏目に張るのも難しいよ。
 

<1939年>

・5-8月 ノモンハン事件

・8月23日 独ソ不可侵条約・平沼内閣「複雑怪奇」総辞職

・9月1日 独ポーランド侵攻(第二次世界大戦始まる)

・9月14日 ノモンハン停戦協定

・9月〜 ソ連は東欧北欧諸国への侵略開始

<1940年>

・4月13日 日ソ中立条約

・5月〜 独軍ヨーロッパを席巻

・9月27日 日独伊三国同盟

・10月 独は英本土占領を断念

<1941年>

・6月22日 独対ソ開戦(不可侵条約破棄)

・7月28日 日本、南方侵略開始(北部仏印進駐)

・10月15日 ノモンハン国境線確定

・12月8日 日本、ハワイ・東南アジア攻撃開始(対英米蘭開戦)

・12月末 ジューコフによるモスクワ反撃戦本格化

 

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*1:一旦はドイツにバルト三国を渡している。

*2:今だってモンゴル国と中国の国境地帯はややこしいところです。

*3:翌年トロツキーはメキシコでスターリンのはなった殺し屋に暗殺される。

*4:ジューコフが強かったって言う人がいる。確かにジューコフは強い将軍だけど、ノモンハン事件で彼は強くなったのだと思う。

*5:形式的にはシュテルンはジューコフの上司。しかしジューコフはモスクワと直接のレポートラインを持つ。こういう相互監視がソビエトだなぁ。

*6:中国で戦争を始めたこと、これが一番の悪手ですよ。満洲ぶんどったのも相当ひどいよ。日露戦争で犠牲が多すぎたな。

*7:戦車は運用が悪くてすぐ撤退してしまいましたけど。