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生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

「ノモンハン 責任なき戦い」NHK 2018.8.15 〜 その3

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満洲国軍の97戦闘機


2018.8.15に放送されたドキュメンタリーについて書いています。

tavigayninh.hatenadiary.jp

 

「その2」に続いて今回は「その3」。

 

国境紛争・領土問題

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そもそもソ満国境は満洲国軍/警察の管轄で、関東軍の管轄は対ソ連作戦の研究に主眼が置かれていたところ、あまりに国境紛争が頻発するようになってきた。国境警備力を増強したいのだが、一方で1937年に日中戦争が勃発し兵力が足りない。そこでソ満国境紛争についてはできるだけ事態を紛糾させず不拡大方針とする、そう関東軍も陸軍参謀部も考えたのは、当たり前のことです。

ところが具体的にどう「不拡大」とするのか? そこがあいまいだった。陸軍中央部はその都度現地軍と連絡を取りつつ適宜対処するという方針ともつかぬ対応策をとり指示も明確に出ていない。これでは現地の司令官が対処に困ってしまいます。

不拡大という空気はある。でも、どう不拡大とするのか、大方針/要綱を示すのが軍中央なんだからさ、ちゃんと方針の指示は出してやれよ、ぼくはそう思います。

中国で戦争を始めちゃったんで忙しかったこともあるんだろうけど、あいまいにしておいて後出しジャンケンをしようとする無責任さやずるさも感じる。

 

満ソ国境紛争処理要綱

国境紛争処理方針が中央から明確に示されない状況の中で生まれたのが、悪名高い「満ソ国境紛争処理要綱」です。

これこそ領土的野心を表明したものだと解する説もあるようですが、ぼくはむしろ「何も決めてこない無責任な中央本部に対する現場からの積極的提案」「国境紛争をいかに『不拡大』*1とするかについての対応献策」なのかなとおもう。

趣旨は:

a・国境が不明/不確定な地域では、こちらが自主的に定める国境線に基づく

b・ソ連が国境を越えてきたらこちらが劣勢でも迅速に対応し撃破する

c・その際、こちらが引いた国境線といえ一時的にこれを越えても構わない

とにかく、関東軍満洲軍は数において劣勢であろうと、すぐに相手を攻撃して出鼻をくじいて、こちらが国境線を超えてもいいから敵を逃がさず徹底的に攻撃しなさい。その上で

d・どういう風に紛争を停止するかは上級司令部の指示を待ちなさい。相手が倒れても殴り続けろ、でもね、やめろ言われたらやめるんだよ。

そういう積極策でした。

これで一応現地司令官が対応に悩むこと事態に陥ることは軽減されます。中央の指示が不明確で、後出しジャンケンのように「やったら怒られるし、やらなかったらそれはそれで怒られる」そんな状況を救おうとするものでした。*2

これは関東軍、辻参謀*3が勝手に作ったみたいに考えたら実はそうではなくて、ちゃんと陸軍中央部には報告がされていて、別段の異議異論は示されなかった模様ですね。ここにも不作為のずるさがあるような気がする。あるいは、中央部の積極派は支持していたのではと考える人もいるようです。これにより国境警備に当たっている満洲国軍の動きは活発になり紛争の火種が広がっているという解釈も当然あります。要するに関東軍の一部参謀は国境紛争を扇動しているものであった、と。

ともかく、この処理要綱は1939年4月25日に所定通り関東軍司令官植田謙吉大将*4により麾下の各司令官に通達されました。

注意しておきたいのは、この「満ソ国境紛争処理要綱」は特別ノモンハン満洲西部国境の紛争のために起案されたものではないということかな*5

それと、現代の感覚でいうと、国境を越えちゃいけないだろうとそう思いますけど、満洲事変のときなんて、朝鮮派遣軍が国境を越えて満洲に進出して後詰めを果たしているんだ。司令官の林銑十郎なんかはもう軍法会議ものですよ。それが越境将軍と賞されてのちに総理大臣になっちゃうんだもの。

 

ノモンハンという国境問題・係争地帯

NHKのこのドキュメンタリーのように音声付き映像で示されると本当よくわかる。

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日本側の主張は左(西)側の ハルハ河を国境とするもの、一方でソ連モンゴル側の主張は、それより東側に50キロぐらい入ったところに国境線を引くものだった。中央ハルハ河から分流して東へ伸びるのがホルステイン河。

係争地帯は、縦横約70キロメートル、幅約50キロメートルの地域です。番組では「大阪市がすっぽりと入ってしまうほどの広大な地域である」という説明がされていたけど、広さのイメージがよくわかります*6。もっと広いかも。

なんでそれぞれの主張が食い違っちゃったかっていうと... よくわからない。もとからあいまいだったところ、日本側がこの辺かな〜ハルハ河っぽいなって思って調査したらそんな感じかなって本当証拠とかも少なかったみたいだし。一方でソ連モンゴル側は、反共産勢力の脅威からの防衛意識も合間って積極的にハルハ河東方の国境線を主張していたようですね。モンゴルの石塔(オボ)や現地宗教の信仰に基づく住民からの聴取に寄ったりすると、ソビエト側の主張に理由があるようでもある。

どちらかというと、日本側の主張、つまりハルハ河を国境とするという主張の方が、都合よく解釈したもので、ソ連側の主張の方がより妥当性が高いと考えられるそうです。

 

 

国境の東・満洲国側

地図の真ん中、 呼倫貝爾-フンボイル地区で、そこは要するにハイラル、日本軍の拠点、ハイラル要塞があったところです。そこから要路が東南東に伸びて斉斉哈爾-チチハル、さらにすぐ東南には大慶があります。実はハイラルチチハルの間には東西に興安嶺山脈が横たわっています。山脈といっても1200-1300m程度の高原(最高峰が2000mくらい)のものですが。

 

国境の西・モンゴル/ソ連

チョイバルザンはモンゴル人民共和国建国の父、ホルロギーン・チョイバルザンから命名された人口約4万人の都市です。改名される以前の地名はバヤン・トゥメンですが、それ以上に、市郊外にはソビエトロシアの軍事要塞「サンベース」が存在していました。

サンベースからまっすぐ西に向かうと、モンゴル人民共和国の首都ウランバートルです。

また、サンベースの北東にはボイジャ(ボルジア)があり、貨車のみだそうですが、シベリア鉄道の終着駅です。ボイジャからシベリア鉄道をさらに西に行くとそこはチタ。人口約30万。シベリアの中心的都市です。ノモンハン事件から遡ること20年、日本軍はシベリアに出兵し、このチタを占領していました。チタのさらに西にはバイカル湖イルクーツクがあります。人口60万の要衝です。チタに本部を置いていたのがザバイカル軍管区です。ノモンハン事件に参加したのもこの軍団です。*7

地図の中央、斜めにひしゃげた矩形のフルン湖*8、南に下がって少し小さい角の取れた矩形のヴィル湖(ボイル湖)。ここからさらに南に下がってモンゴル突出部のちょうど中央あたりがタムスクだと思われます。ソ連の基地跡が廃墟となって今も残っています。(リンクは貼りませんが、「タムスク基地跡 ジューコフ将軍ゆかりの廃墟」で検索すると朝日新聞のネット記事が出ると思いますのでご参考まで。)

 

満洲西部国境の意味

荒涼とした草原であり、資源確保的な意味はないかもしれないが、その国境を破って、内モンゴル満洲国の反共産モンゴル勢力と関東軍満洲国軍が呼応して東から侵攻してくることをソ連モンゴルは恐れたであろうと思われます。一方、ウランバートル/チタからのルートで交戦中の中国に物資が運ばれることを日本側としては懸念したとも思います。

西部国境(ソ蒙にとっては東部国境)はソ連・モンゴルにとっても日本側にとっても戦略的に無意味ではなかったと考えます。

 

 

もし日本がドイツと呼応して北進(ソビエト侵攻)をしていたら、主力の一つは西部国境からだったでしょう。チョイバルサン(サンベース)からウランバートル、ボイジャ(ボルジア)からチタ、イルクーツクへの侵攻ルートとなったはずでしょう。実際、1945年のソビエトによる満洲侵攻のルートの一つはその逆で、ザバイカル戦線による東進であり、ハイラルからチチハルが攻略されています。

確かにノモンハン事件は少しどころかかなり軽率な偶然の軍事衝突から始まったことは事実ですが、「全く意味のない土地を巡っての戦い」という評価はどうなのでしょうか。ノモンハンという土地自体は無価値かもしれませんが、そこで行われた戦いには意味があったのではないかと思います。*9*10

満洲西部国境は関東軍は軽視していましたが、ソ連モンゴル人民共和国にとっては一定の意味のある地域でした。

 

西部おける問題の本質

 

現代の中華人民共和国とロシア、モンゴル国との国境ですが、ほぼぼぼ当時の満洲国、ソビエトモンゴル人民共和国との国境と同じです。

国境の内側すぐに主要都市、軍事経済拠点が存在する満洲国の東部/北部国境とは異なり、西部国境では国境から200kmも離れた場所にハイラル(フンボイル)があるだけです*11満洲国境北部や西部ではともかく、西部においては「国境を死守する」ことが軍事目的ではなかったのではないかなと思います。むしろ国境を侵してくるソ連・モンゴル軍をその出鼻で徹底的に攻撃して、その意図を初期段階で徹底的に砕くことに重点が置かれるべき地域だったと思います。相手を撃破してその結果として主張する国境が守られればよかった。一歩の「侵入」さえ許さないというものではなかったと考えるのが合理的です*12

他方、ソ連モンゴル人民共和国側とすると、社会主義モンゴルやソビエトの傀儡国家体制に反発を抱く国内モンゴル人、内モンゴル人、満州に在居するモンゴル人、これらが呼応して反政府活動や反社会主義活動を活発化させることを防ぎたかった意図も考えられます。ソ連モンゴル人民共和国側とすればその地域全体に民族問題を抱えていたと言えるでしょう。そんな民族問題を上手に対処しておかないと今度はソ連中央部、つまりスターリン*13により自分たちの立場と生命が危うくなるという政治問題もあったと考えられます。

 

(続きます。)

 

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*1:侵さず・侵さしめず

*2:もちろん別の評価もあります。

*3:当時少佐、満36歳。

*4:当時満64歳、在満洲大使兼務。

*5:それにしてはタイミングが良すぎる気もしますけど

*6:関西の人以外分からんか。

*7:ここで言及する人口はWikipediaで調べました。直近21世紀のものでノモンハン事件当時のものではありません。

*8:ダライ湖とも。

*9:実際現代でも中華人民共和国、その内モンゴル自治区モンゴル国が交錯するややこしい場所である。ちなみに、モンゴル人民共和国は1989年社会主義から転換して、国名も「モンゴル国」に変わった。

*10:土地に意味がないわけではないとは思うけど、それにしても第23師団の戦い方はヘタクソすぎる。もうちょっと犠牲が少なく自分たちの利益を守る方法もあったのではないかと思う。それは後述します。

*11:東京から大阪までが直線で400km、その半分の浜松あたりで大阪からも東京からも200km。

*12:後述しますが、第一次のモンハン事件の当初、国境まで出張らなくてもハイラル(フンボイル)でどんと構えて、やってくる敵を撃滅すればいいんじゃないかという献策もありました。

*13:当時満50歳、トロツキーを追放し、1930年代にスターリンは大粛清を行なっている。