〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

紫の世界:そこは平和なのか?

    

政治や権力と言うものは、力、チカラ、強制力、言い方を変えると暴力だ。ただ、「政治は暴力」と言ってしまうと、ちょっと社会思想的な偏りが生じる。そこで「力」をある種の思想に染まらない表現に置き換えるとすれば、「執行力」が適切かな。
英語では「enforce」「enforcement」つまり、力を行使する、力を使うこと、となる。いいね。これなら無味無臭だ。

 

力を行使する機能。さすがに最近では「暴力装置」という言葉を使う人は少なくなったよな。

 

悪を行使、執行するのが暴力ならば、善を行使し、執行することが正義といえる。ただし、そんな善とか悪とかは100年も経ってしまえば、全く考え方が違ってしまうものだ。ある種の人たちを鎮圧するのが善であった時代もあれば、横暴な人権侵害の悪行とみなされる時代、場所もある。

 

とはいえ、だ。ともかく、善にせよ悪にせよ、我々は常にこの力に怯えたり、守られたり、それを振るったり行使されたりして生きている。そこに気がつかないのは幸せなことだよ。

 

だってそうだろ、善にせよ悪にせよ、執行力、力、の伴わない判断は、全く迫力がない。ほら、迫「力」、力だ。「力/チカラ」が伴わなければ誰も従わないんだ。

もちろん、人間は心の中に倫理観や正義感と言うものを持っている。ただしその感覚というのは、人間が生き延びるための共同体を維持するオートマチックな仕組みに過ぎないらしいね。

どうやら。集団の和を尊重して弱いものを助けてあげる(力が必要だろ?)、集団の和を乱すならず者や怠け者を排除する(ためにはやっぱり力がいる)。その原動力(また「力/チカラ」だな)となるのが倫理観であったり正義感であるという感情だ。

 

執行力、力、強制力、迫力、暴力? 正義の鉄槌?、名前は何であれ、背後にあるものは違っても、それが行使されるプロセスは異なっても、結局は同じことだ。赤であろうが、青であろうが、見方次第で同じ色に見えてくる。まるで紫色のように。

 

赤と青が混じり合っているのが、紫の世界。でもそこは平和なのか?のかのか?

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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