〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

暗闇へのジャンプ「あの角の向こう 不条理ドラマは不条理なのか?」

んNKの単発ドラマで忘れられないものがある。

「あの角の向こう」

主演は西村晃。1974年9月18日に放送された別役実脚本の1時間のドラマである。今ググったのだ。印象的なドラマだったので、ネットに情報が散見される。 
このドラマ「あの角の向こう」は、当時わりと流行っていた「不条理ドラマ」の短編シリーズのうちの一本です・だと思う。多分絶対再放送されたりDVD化されるおそれはないので、ネタバレですが、ストーリーを書いてしまいます。いや、リメイクして欲しいなって希望は持っていますけどね。

気になる方はこれから先は読まないないで下さい。ごめんね。

 

中年のサラリーマンが夢のマイホーム、土地付き一戸建てを購入する。しかしそれは不動産詐欺だった。やばいぞという友人の忠告を無視してそんな詐欺にひっかかった主人公のサラリーマンは、マイホーム購入に喜ぶ妻や子供達に「騙されて、家は無い」とどうしても言えない。言えないというよりも「言わない」。あいまいな薄笑いを浮かべるだけで、家族には何も言わない。不思議なのだが、何も言わないのですね。不条理なの。
挙句の果てに引越しをはじめてしまう。タンスとか大きな家具を送ってしまう。家はないのにね。不条理だから。
 
とうとうリヤカーに家財を積んであてもなく出かける主人公に家族は何度も繰り返し尋ねる
「お家はどこ? まだなの?」
主人公は薄く微笑みながら、何度も何度も何度も繰り返す...
 
「うん、そこだよ。その角を曲がった向こうだよ...」


もしそうしたいのなら、いろんな寓意を読み取ることはできる。

 

角(かど)つながりでいうと、時期は前後するが、小学校の頃に何度も繰り返して読んだ外国、多分イギリスの童話(?)に「ミッカーどん」という話があった。
 
通りの角の向こうには「ミッカーどん」という大男の化け物がいて、子供が走って角を曲がってくるのを待っているんだ。子供がバーっと走ってきてあわてて角を曲ると... ミッカーどんが現れて子供はさっとさらわれてしまうんだよ。
 
だ・か・ら、急いで角を曲がらない。角を曲がるときは気をつけて曲がりなよ。
細かいことは忘れましたが、そんなお話です。
 
ミッカーどんの「どん」というのは、西郷さんなら「セゴどん」、居残りの佐平次だったら「イノど〜ん」、その「どん」なんでしょうね。
 
角を曲がるときゃ気をつけなって。ミッカーどんが出るよ。
そこには何が潜んでいるかわからない。

大学の授業で「暗闇へのジャンプ」という言葉を習った。
結果が予見できない状況の中で、純粋にプロセスが正当であるというだけでそのプロセスを選択し結果に甘んじることでいいのかどうかという考えを、否定的な比喩にしたものである(と思う・思っていますけど...?)。
 
要するに、結果が悲惨なものになること、または、明らかに不公正になることが予見されても、それでも正しい手続きをつらぬき通すのかどうか? ってことです。
あるいは、「結果がどうなるかなんて知らん。でも、このやり方が正しいのだ」とガンコな石頭でいいのか?ということでもある。
 
正当手続きであれば暗闇へも敢えてジャンプすべきなのかどうか? ジャンプ先やジャンプした結果を見通した上で、翻ってプロセスを選択すべきではないのか?
 
人生の命題でもあるな。
 
「想定内です」って言葉が流行ったこともあったね。地獄へ向かう道を「想定してました」ってえばったってさ...
 
つまりやっぱり、暗闇へのジャンプは不安なんだよ。よく考えると、やっぱり生きていくことは暗闇へのジャンプの連続だよ。今日、生きてこられて、ご飯を食べて、こうしていられるのは、たまたま運が良かった結果です。
 
運が良かったの。
 
ジャンプ先がどうなってるかなんて、本当は跳んでみないとわからない部分も多いんだもの。

その角を曲がったところになにがあるのか。

角を曲がった先にミッカーどんがいなかったというそれだけで、大金を払って買ったはずの家も土地もなかったとしてもラッキーなのかもしれない。
 
暗闇にジャンプしてもブービートラップ・竹ヤリが仕掛けられてはいなくて、せいぜい足をくじく程度ですめば、おんの字かもしれない。
 
あんまり不安になって、救命胴衣の上に救命胴衣を重ねて、パラシュートもつけとくみたいなことをしても、身動きが取れなくなっちゃえば、結局は生きている意味がないのかもしれないしさ。

 

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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