〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

『いい仕事が見つかるといいね

最近、涙もろくなっちゃって... タハハハ

以前、ンHK・BSので再放送されていた「関口知宏の中国鉄道大紀行 〜最長片道ルート36000kmをゆく〜」(初回2007年)を録画していたものをもう一度見ています。
 
ある回のこと。列車の中で、自分は「貴州人」だという中国青年が、旅の案内人の関口知宏さんと話していたんです。ちなみに貴州は、中国では「やや」というより「かなり」田舎、という位置付けでしょうか。(それでも人口は貴州省全体でで4千万人、省都の貴陽市で300万人ですけど。)
 
「俺は貴州人なんだよ。親友に一緒に仕事を始めようってさそわれてこのxxx(どこだか忘れたが中国の大都市)に来たんだ。でもさ、仕事って、マルチだったんだよ! ネズミ講さ。そんな仕事はできないだろ。『ダメだ、やらない!』って別れて来たんだよ」
 
「仕事? これから探すさ。いいのがあるかな…」
 
関口さんはちょっと沈黙したあと、「いろいろあるよ、俺もあるよ。親友に裏切られるってさ...」的な慰めの応対を呟くような日本語でその青年にくりかえし語りかけていました。
 
そして、その日の目的地に着いた関口さんは、貴州青年を車両に残してを列車から降りるのですが、いったん降車はしたものの、列車の窓を開けて、ホームにいる関口さんに手を振って別れの挨拶をしている青年に向かって:
 

いい仕事がみつかるといいね! 
きっとあるよ。いい仕事がさ!
 

そう叫ぶんです。
 
ワタクシ、毎度毎度、そこで号泣... ヒー! 
 
トシだね。

 

ぼくは以前、海外での石油開発の仕事に従事していました。1989年の2月、ボルネオ島のミリでの赴任生活を終え、帰国のため一旦ミリからクアラルンプール行きのローカル航空機に乗っていたときのこと。通路をへだてて右手斜め前に、白人男性が座っていました。そのときのぼくとおそらく同年輩、30前後の青年です。若い奥様(だと思う)とまだまだ赤ちゃんのお子様(だと思う)と一緒でした。
 
揺れる機内で、彼は一所懸命手紙を書いていたんです。ノートパッドにボールペンで、一心不乱に。
 
ぼくは、その手紙の最初の部分を覗いて読んでしまいました。
 
「私の名前は xxx・xxx です。石油技術者です。実はこの度、ボルネオのシェル社を退社しました。御社に貢献できることもあると思いますので、私の採用を検討していただけないでしょうか....」
 
手書きですよ。原稿なのかな。あとでタイプ・清書するんだろうか。仕事をもう辞めちゃったんだ。それにしても、奥さんも子供もいて、大変だな...
 
数年間の駐在を終えて、日本に帰任する飛行機の中でちょっと舞い上がっていたぼくは、同じ業界だというだけで何の関係もない彼の転職活動を、はなはだ無責任に心配していました。
 
「いい仕事があるといいね」って。


それから10年ほどのときを経て、今度はぼくの方が、そのとき二度目に勤めていた会社の苦境・リストラ、転職を余儀なくされ、心細く仕事探しを経験しようとは、そのときはまったく思いもしませんでしたね。
 
いい仕事、条件のいい、つまり、カネがちゃんと貰える仕事がみつかるかな、見つけたいな...
 
失業や仕事探し、転職の模索の厳しさは、本当にツライものがある。というか、なにが辛いかというと、不採用の連絡を受けるたびに「自分が情けない」「自分は必要とされていない」と思ってしまう・思わされてしまうことでした。

その点、定年後の仕事探しのとき、2018年ですが、もうすこし切実さは少なくなっていました。

「生活費だけの仕事があればいいや!」
そう思ってましたので。

 

話を戻すと...

貴州青年、初回放送が2007年ですから、もう20年ちかく経ちました。この間の中国経済の変化はすごいものでした。バブルに乗って大金持ちになって、キレイな奥さんと子供を連れて日本に買い物にでも来ましたか?その後の経済の荒波に沈んでいませんか?

 
シェルを辞めた技術者の青年、ぼくと同い年ぐらいだからもう60代の半ばだ。穏やかな人生を送っているといいな、って思います。

 

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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