自分を殺そうとしてやって来るやつがいる。
僕の父親は大正15年に生まれて、敗戦直前に召集され陸軍二等兵で八月十五日を迎えた。擲弾筒部隊に配属されたのだが与えられた武器は破甲爆雷(はこうばくらい)で、要するに対戦車爆弾だ。
千葉県の九十九里浜でタコツボと呼ばれる兵隊一人用の塹壕(つまり「穴」)を掘ってそこに隠れて破甲爆雷を抱え、米軍戦車の上陸を待つ。
米兵が上陸して来て、M4タンクが来たらタコツボから飛び出して装甲の薄い車体の下に潜り込んで爆発させるわけだ。まあ、早い話が「戦車をみちづれに死ね」というわけだ。戦争の下手くそなマッカーサーが九十九里に上陸しなかったおかげで、ぼくが生まれて、今、半世紀以上どころか、還暦の数歩手前まで生きて、ブログを書くことができている。
ちなみに、今でもだけど、子供の頃もプラモデルの戦車を作るのが好きだったのだが、親父はぼくが米軍M4シャーマン戦車を作っていると、「そんなもの作るなよ! 俺のカタキだ」とのたまわっておりました。そんでね、日本軍の戦争映画は大嫌い。アニメタリーって銘打った「決断」は観せてくれないし、テレビで放送もあった「拝啓天皇陛下様」なんて観ようとしたら「消せ!」の怒鳴り声でした。
そのくせ「コンバット」は好きみたいで、よく一緒に観ていたよ。あるとき訊いたら「ヨーロッパの戦争は別物」だそうでした。
ま、そうなんだろうなヽ(´▽`)/
...それはともかく、親父は復員して働きながら明治の夜学に入った。
ぼくの実家は新聞販売店を経営していたんだけど、親父がどういうわけでその商売を始めたのかはよく分からない。政治家の秘書をしていたとも聞いた気がするが、子供の頃はまったく興味がなくて気にも止めなかったな。
子供なんて残酷なもんですな。
商売を始めた頃は資金も苦しかったらしく、借金もしたらしい。1970年代の半ば、ぼくが高校生のとき、親父は古い文箱からふと一通のとぼけたような封書を取り出してこういった。
「これは金貸しの詫び状だよ、コージロー.... いろんな悪行の詫び状をよこしてから江戸川で首をくくって死んだんだ。金を返さなく済んだよ。本当に助かったな。あははははは!」
随分ひどいことを言うなと思ったのだが、隣に座っていた母親が「本当にそうですね、良かったですよ」と言葉にこそ出さないものの、ニコニコ微笑んでいたので、商売をやるのは大変なんだなぁ、とつくつくほーし思ったものです。
法外な金利をとる高利貸だったんだろう。今みたいに過払い請求が認められているわけでもないし、昭和20年代のことだ、利息制限法どころか出資法にも違反してるほどの高利だったんだろうな。
その高利貸しが首をくくらなかったら、親父が首をくくってたのかもしれない。
ぼくは全然覚えていないのだが、ぼくが4-5歳の幼児の頃、白いご飯に醤油と味の素をかけただけのものを「おショウユご飯」とよんで好んで食べていたらしい。(当時、味の素は舐めると頭が良くなると言われていたのよ。出前のお寿司を食べるときに醤油 -シタジ- の小皿に味の素をちょいちょいと振りかけてたものだし、お茶に味の素を入れることもあったのです。)
「昔は商売がうまくいかなくてなぁ、コージロー、お前がおショウユご飯を食べて『うめぇなぁ、おショウユご飯はうめぇなあ』と言っているをみて、子供におショウユご飯を食べさせるぐらいなら出来るかなぁって思ったもんだよ」
親父はそう言っていたことがある。
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「Live and Let Live (こっちも生きて、そっちも生きてもらう、つまり「痛み分け」「お互い様」の意味)」をイアン・フレミングがもじった「Live and Let Die(こっちは生きるけど、そっちは死ね)」を「死ぬのは奴らだ」ってホントうまく訳したもんだ。
自分を殺そうとする敵(てき)がくたばって大笑いしたくなる気持ちも、お金がなくてもなんとかやっていけるんじゃねえかなって心細くも安心する気持ちも、どちらも今はあたりまえによくわかる。
でもね、ぼくは今はおショウユご飯は食べません。
贅沢になりましたのでね。
玉子かけご飯にして、シャケフレークまでふりかけちゃうヽ(´▽`)/
塩昆布ふりかけてもおいしいらしい。
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