〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

Body Pump ボディパンプ 105 ・せわしないよ〜

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戦車のイメージで筋トレ系有酸素運動ボディパンプ  (Body Pump)」に参加している私ですが...

この4月1日(2018年)から始まった105番。せわしないの。例えば、チェストパートです。バーベル使ってプレス、プレート持ってフライ、で腕立て伏せ(プッシュアップ)とコロコロ変わっちゃうのね。

なんか集中できない。チェストだけじゃなくて、各パート全般を通してそんな感じ...

そうか!

寝転がったり、起き上がったり、うつ伏せになったりと、テキパキと体位*1を変えて色々と動くのもトレーニングのうちなのだね。ホントかな...

 

ところでですね、この105番のランジはキッツイです。ぼくはオモリ持たないでやる。

 

7. ランジパート

terror squat lean back feat. fat joe, remy

www.youtube.com

 

body jam ボディジャムの前回の曲、#83 でも使ってたね、この曲。

ワルそー、ソフィ・ワルソーヽ(´▽`)/ 

 

2018.4.17 訂正です。

上の「lean back」はランジではなくて「肩・ショルダー」パートでした。訂正いたします。申し訳ありません。

 

 

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*1:と言っていいのか?

京女はイケズではない。

こんなぼくでも京都には友人がたくさんいるのです。だから「京都では...」とか「京都の女性は....」とか否定的な弁を弄し口を滑らすと政治的に不利益に働き、社会的な報復を受ける懸念がある。もちろん訴追される可能性もある(ウソ)。

だからこれは悪口ではないです。てか、今まででも悪口を言ったことはありません。

 

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京都に限らず女性に限らず、日本語を母語とする場合、明確な拒絶を示すことには心理的な抵抗がある。以前「『NO』と言える日本」というベストセラーがあった。

思うに、日本人は、YesともNoとも言える選択肢があるのに、Noとは言わないわけではないのです。そもそも結論をはっきりと伝達することに対してのある種の文化的生理的な嫌悪感があって、特に「No」という意思を伝達することにはYes と言うよりも、より高いハードルがある。

 

繰り返すと、明瞭・明確に自分の意思を表明することにある種の抵抗感がある。しかも、否定的な意見を直接表明することについてはより大きな抵抗感を感じる。「露骨はイヤですね、ロコツは」とか「皆まで言うな、皆までも(チャンバラトリオ)」とかの文化です。

これはなんというか文化的なものであって、例えば「ゴキブリ」ちゃんに対して感じる生理的な嫌悪感に近い。

 

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この「結論を直裁に表現し伝達すること、特に否定的な結論を明瞭に表明すること」に対する嫌悪感・ハードルは深く日本の歴史文化に根付いている。そして京都は、そんな歴史文化が現在でも継承されている地域の一つです*1

また、女性はおしなべて男性よりもコミュニケーション能力が高いので、「否定的な言動は避ける」傾向がより色こく出るのだろう*2

 

さらにいうと、「思考の結果としての否定的な結論」という明確なもの自体が頭や心の中に存在しているわけではない。思考と言語はニアイコールなのだ。明確に存在しない否定的な結論は表現し伝えることができない。

典型は「細雪」の雪子です。さすが江戸っ子の谷崎。

 

本当は「ノー」なのにわざと「アイマイ」に表現することが「イケズ=意地が悪い」なら、京都の女性はイケズではないのです。元から「ノー」という考え方や概念からして違っていて、それを直接伝えることなんて、さらにとっても下品だからできない。

このことがもっと早くから分かっていればよかったと思う反面、分かんなかったから、つまり鈍感だったから、逆に生き延びてこれたかも知れないです。

 

とにかく、ぼくは京都が好きですよ。

 

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*1:「なのではなかろうか」なーんて書くのが「結論を明確に表明することに抵抗がある」文化の一例です。ぼくはしないし、言い切るけど。

*2:おっと、アイマイ表現ですが、言い切っちゃうと日本語として座りが悪いと感じましたヽ(´▽`)/

心を試してはいけない

 

「人の心を試してはいけないんだよ。お菊はお皿を割ったから手打ちにされたのではないんだ。殿様の心を試したから斬られたんだよ」

多分ぼくが小学校の高学年の頃だと思う。三越の落語会で正蔵(当時・のちの彦六)の芝居噺か怪談話かを聴いた後、母親がそう言っていた。*1

 

自分がどれほど好かれているのか、本当に愛されているのかどうか、それを確認するために、その人の心を試してはいけない。

 

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実はこの記事を書くに当たって、番町皿屋敷のお話をネットでちょいちょいと調べました。皿屋敷の話は、いくつかバリエーションがあるんですと。

母親が教えてくれた、お菊さんと殿様が、実は恋仲だったけど、身分違いのお菊さんがわざとお家の大事なお皿を割って、自分をとるかお皿をとるか、お殿様の本心を試したことが悲劇の始まりだった... というストーリーは... なんと!

 

岡本綺堂*2が大正六年に発表した戯曲での新解釈(?)だったんですね! いや〜、まだまだ勉強が足りません。

 

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「人のこころを試してはいけない」と言った母親の言葉が、「だからxxxxx しなさい」とか「だから xxxxx してはいけないよ」とかに発展して行った記憶はない。

 

「好きな人の心は試してはいけない」

ピリオド。

 

 

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*1:なんで皿屋敷の話になったかは覚えていない。落語は別のものだったと思う。彦六の正蔵皿屋敷を聴いたことはないです。

*2:おかもときどう・半七捕物帳の作者