こんなぼくでも京都には友人がたくさんいるのです。だから「京都では...」とか「京都の女性は....」とか否定的な弁を弄し口を滑らすと政治的に不利益に働き、社会的な報復を受ける懸念がある。もちろん訴追される可能性もある(ウソ)。
だからこれは悪口ではないです。てか、今まででも悪口を言ったことはありません。
京都に限らず女性に限らず、日本語を母語とする場合、明確な拒絶を示すことには心理的な抵抗がある。以前「『NO』と言える日本」というベストセラーがあった。
思うに、日本人は、YesともNoとも言える選択肢があるのに、Noとは言わないわけではないのです。そもそも結論をはっきりと伝達することに対してのある種の文化的生理的な嫌悪感があって、特に「No」という意思を伝達することにはYes と言うよりも、より高いハードルがある。
繰り返すと、明瞭・明確に自分の意思を表明することにある種の抵抗感がある。しかも、否定的な意見を直接表明することについてはより大きな抵抗感を感じる。「露骨はイヤですね、ロコツは」とか「皆まで言うな、皆までも(チャンバラトリオ)」とかの文化です。
これはなんというか文化的なものであって、例えば「ゴキブリ」ちゃんに対して感じる生理的な嫌悪感に近い。
この「結論を直裁に表現し伝達すること、特に否定的な結論を明瞭に表明すること」に対する嫌悪感・ハードルは深く日本の歴史文化に根付いている。そして京都は、そんな歴史文化が現在でも継承されている地域の一つです*1 。
また、女性はおしなべて男性よりもコミュニケーション能力が高いので、「否定的な言動は避ける」傾向がより色こく出るのだろう*2。
さらにいうと、「思考の結果としての否定的な結論」という明確なもの自体が頭や心の中に存在しているわけではない。思考と言語はニアイコールなのだ。明確に存在しない否定的な結論は表現し伝えることができない。
典型は「細雪」の雪子です。さすが江戸っ子の谷崎。
本当は「ノー」なのにわざと「アイマイ」に表現することが「イケズ=意地が悪い」なら、京都の女性はイケズではないのです。元から「ノー」という考え方や概念からして違っていて、それを直接伝えることなんて、さらにとっても下品だからできない。
このことがもっと早くから分かっていればよかったと思う反面、分かんなかったから、つまり鈍感だったから、逆に生き延びてこれたかも知れないです。
とにかく、ぼくは京都が好きですよ。
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