ある種の生物は摂氏数百度の高温の中でも生きることができる。熱いと感じないのだろう。
子供の頃、家風呂がないものだから(1960年代の東京ではそれがフツー)、通りを渡った向かいの本町にあった「たから湯」という銭湯・お湯やさんに通っていた。子供だったもんだから大抵は母親と女湯に入るのだが(テへッ)、早い時間に父親と行くときは男湯でした。当たり前だけどね。
東京のお風呂屋さんの湯船は二つあって、浅い方と深い方。どっちも熱いんだけど、深い方の熱さったらもう、火傷ですよ。多分47-8度あったんじゃないかな? それをね、うめようとなんかすると、熱い湯にでも浸かってないとどうにも生きてらんなくなっちゃってる干からびたツルみたいなじいさんから「ぼうず、うめんるじゃぁないよ、ぬるくなるじゃねぇか!」って怒られたもんだ。
男湯だけじゃない、女湯でも同じだったな。ジュンコちゃんのおばあちゃんはしなびたおっぱいをもう一度ふくらましたかったのか、いつもあっついお湯に首までつかっていた。うめようとするとシオカラ声で「コージロ〜ちゃん、お湯をうめちゃちゃあ、ダメだよ〜、いいかげんなんだからさぁ〜」ってにらまれた。
三分入ってっとインスタントそばができるぐらいの熱いお湯だよ?
その辺をわきまえてたもんですからね、京都の街中にはまだまだ銭湯が残ってるんで、今もそうなんだけど、14年前に越してきたばかりの頃は色々回ってみたときにも気を使ってた。京都のまちなかのとある古いお風呂屋さん、すごく雰囲気があっていい感じで、午後の早い時間に入ったからかな、お客さんは誰もいない。ぼくが一番だった。
で、お湯がすごく熱い!
ぼくは45度ぐらいまでならなんとか入れるんだけど、まじ、それよりかずっと熱い。熱湯コマーシャルじゃないのかよってくらい。それを無理してそろり、そろり、って入ってたんです。
落語ですよ。
しばらくしたら、地元のご老人がお二人ほど入ってきた。
....こっちもシロトじゃねえのさ、うめなくてよかったなっ、て我慢してたら....
「熱っついな! こんなん入れるかいな!」
おれのことをぐっとニラんでさ、熱いお湯をガンガンお水でうめてた...
... 本当にもう、身体だけは大事にしてくださいね、どーもスイマセンヽ(´▽`)/
真空・絶対零度の宇宙空間で放射線を浴びながらも生きていたプランクトンもいたことが記録されているくらいだから、「生きる」ということだけに限っていえば鈍感であることは大変重要な特質なのだろう。熱いお湯に入れるのも、年をとって鈍感になっているからなんだろう。
生きてはいられる。ただし、「楽しく」生きているかどうかは疑問かもね。
当時のおじいちゃんやおばあちゃんはあんなに熱いお湯で気持ちよかったのかな。
お風呂は42度ぐらいがいいです。それでも熱いか。
ぼくたちは、この世界で「楽しく」生きている。楽しくないことも含めて、生きていることはとりあえずは幸せなことだ。
多分とりあえずは幸せなんだろう。ぼくたちは地面を這い回る虫を哀れむことがある。「あんな風に生まれなくてよかったな」と。すぐ踏まれて死んじゃうし。
でも、どっか上の方からぼくたちを見ている存在からすれば、ぼくたちのように生まれなくてよかったな、あすこまでは堕ちたくないな、と思っているに違いない、と昔から人々は考えてきた。
いつも「自分は幸せか?」「本当の自分とは何か?もっとあるべき生き方があるんじゃないか?今の自分ではなく、別の自分になりたい」と考えているのは幸福なんだろうか?
以前は、そういうのは不幸だと思っていたが、今はよくわからない。
ホントにわからなくなっちゃったヽ(´▽`)/
「考える」と「想像する」「空想する」とはどう違うんだろう。
ビミョーなニュアンスや定義の差は当たり前だが分かる。
とはいえね、おんなじようなものでもあるよ。休日に出くわした同級生のご家族、お父さんお母さん、友達とその兄弟姉妹がみんなおんなじ顔をしてるだろ? ヽ(´▽`)/
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