〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

自転と公転の違いについての一考察

幸福は、まるで気まぐれな一発屋のように突然現れるが、不幸は、計画的かつ時間通り運行する貨物列車のように、明確な意図を持ってやってきて、そして永遠に続くから、その踏切は開くことがない。

      

どっかの作家がえらそうに言ったことだろうか?

そんなことはどうでもいい。要は泣きっ面に蜂、降れば土砂降り、溺れる犬はたたきのめされる、そんなことで、古くから誰もが知っていることだ。

ただし、うまいことことが進んでいて、自分でも調子に乗っている間は、そんなふるくからの警告にはまったく気がづかない。ぼくが若かった頃のように。

つまり、うまく行ってる、ってときにはこう思うものだ。

もちろん不幸はやって来ず、少しつまずいたとしてもすっ転んだりはしない。運悪く転んだとしても、周囲の人々は優しく微笑み、手を差し伸べてくれるものだからさ。


ぼくは、それがあいつらの優しさとか親切心からくるものだと思っていたんだが、そうではなかったのかもしれないな。なにかの見返りを期待していたのかもしれないし、助けなかったことで、ぼくがなにか仕返しをすることを恐れていたのかもしれない。

それでも今となってはどうでもいいことだ。

調子が良い?うまく行ってる?そんな日々は続きはしない。

日は暮れて、夜は訪れる。

「大丈夫、陽はまた昇る」

それはウソだ。 地球の自転も公転も、止まるときはくる。

太陽と地球との間の途方もない距離を一単位としてしまうケプラー的な長い目で見れば、陽はまた昇らないのだ。

「知らなかったのかい?」

知ったかぶりばかりしているそいつは笑いながらいう。

「笑ってくたばる奴もいるさ」

ぼくも嗤いながらそう答える。

(2015.10.17に別ブログで発表し、2017.6.17に書き直して本ブログで発表したものにさらに加除訂正を加えました。)

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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