2016年10月末に長崎を訪問しました。長崎旅行の大目的の一つは軍艦島クルーズでした。長崎入りした前日の雨模様・ぐずり天気が嘘のように晴れ上がりました。はい、ワタクシ、晴れ男なんですね。
こちらのクルーズに参加しました。船の名前はブラック・ダイヤモンド号。お客様は徳島の中学校の修学旅行の生徒さんも含め平日というのに満員御礼でした。事前予約は必須ですが、ネットでできるから簡単です。
海は大凪で全然揺れません。船酔いの薬は一応飲んでおいたんですがね。
長崎女神大橋(めがみおおはし)をくぐって外海に。この橋は名前の通り優美でおおらか見事な吊橋です。こういう吊橋構造を斜張橋(しゃちょうきょう)というそうです。勉強になるね。
外海に出ても、波ひとつない。でもね、こんなに素晴らしく晴れ上がって、穏やかな海は、一年に何日も無いそうです。外海に出ると船は揺れるし、ひどい時には軍艦島の桟橋に船をつけることが危険すぎでできなくなることもあるらしいです。
つまり、上陸できないこともままあるということらしい。
晴れて、しかも海は穏やか、いや、ラッキーでした。
おおお、まさに軍艦だ! 長崎港に停留していたイージス艦「こんごう」のシルエットによく似ている。
上陸前に写真スポットに停泊してくれるので、全景をカメラに収めました。夜、潜望鏡で見たら軍艦に見えるよこれは。
軍艦島の正式名称は「端島(はしま)」。米海軍潜水艦が戦艦と間違えて魚雷を打ち込んだという話は、本当のところは、ちょっと「盛ってる」らしいですね。
二番、三番管魚雷発射よーい。ヨーソロー!
あ、これじゃ日本海軍かヽ(´▽`)/
いよいよ上陸! ただただ息をのむ迫力です。まさに異空間です。
「毎回クルーズのお客様の中には、この軍艦島で働いていた、この軍艦島に住んでいたという方がいらっしゃいます。その方々にはある共通したことがあるんです。それは、“この島の廃墟のお写真をお撮りにならない” ということなんです」
上陸後、ガイドさんがそう教えてくれました。
軍艦島の最盛期の50年前の人口は五千人を超え、人口密度は東京の9倍、世界一の人口密度だったそうだ。
この島には炭鉱で働く三菱の従業員だけではなく、その家族、学校の教師職員、映画館、パチンコ店などの娯楽施設の関係者、飲食店関係者などでひしめき合っていたのであるから。
さらに、軍艦島のアパートや学校は当時でも最先端の高層ビル。炭鉱従業員の賃金レベルは大変高いもので生活水準は東京や大阪の平均的サラリーマンのそれを大きく上回っていたという。
大都市・大都会だったんだ、この孤島は。
つまり今は廃墟であるこの島には、人間がわんさと暮らし、人間らしく働いていて、生活していたわけだ。
何千という人たちの人生を抱えていたわけだ。その活気を知る人たちは現在の廃墟となった軍艦島のこの風景を写真に収める気持ちになれないのだという。
ぼくは傍観者だから、観光客だから、写真を撮りまくった...
そういうことだったんだ。
言葉を失う。
何千人もの人が、生まれ、育って、生活をしていた「都市」が廃墟になって朽ちている様子。
ぼくが生まれて18まで育った街が同じように廃墟になって残っていたら?
もちろん現実では、ぼくの「ふるさと」の街並みは相当変わってしまったけれども廃墟にはなっていない。それどころか2020年の新東京オリンピックに備えて新しい大きなビルがどんどん建設されている。
しかし、ぼくが住んでいたマッチ箱のような建物が、もし古い建物がそのまま放置されて廃墟となっていたらどうだろう、ぼくはどう思うだろう。それを写真に写すことはできるだろうか?
できるような気もするし、できないような気もする。
...いや、できるんだろう。
今思い出したのだが、父親が子供の頃から住んでいた東京都江戸川区の小岩の家は祖母が死んだ後家主に返したところすぐにとり壊されて別の家が新しく建った。その様子を観に行って、こんなだったよ、と親父に話すと、一言こういわれた。
「人間の気持ちがわからないんだな、お前は」
そういうことなんだろう。
(この記事は2016.11.5に別ブログで発表したものに加筆修正を加えたものです。)
© 朽木鴻次郎
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