〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

定年後、シニア世代、ぼくたちは勝手に生きる(と死んでしまうかも?)

   

 

1. 人類の共同体意識


人類は、その歴史を通じて共同体を形成し、それを維持することで進歩と発展を遂げてきました。共同体から離れた一個の生体としての「ヒト」はとても弱い。大型犬にすら対抗できないだろう。ただし、集団で共同体を組成し強大な力を発揮してきた。そこで、ヒトが最も恐れるのは共同体から排除されることである。

つまり、人々は「共同体からの排除」を最も恐れる感情を持つ。この感情は、進化の過程で身についたものであり、集団から孤立することのリスクを避けるためのものである。

人間の心の中には、「仲間はずれ」になることへの恐怖がある。しかしまた、その一方で、共同体内での地位や存在価値を確立するために「自分は優秀である」とアピールすることもまた、個体のヒトの生存戦略には必要なのだ。特に男性にとっては、異性を引きつけるためにもこの欲求が働くとされる。だが、集団の中で目立つ存在となることはとても危険でもある。目立ちすぎて逆に集団から排除されるリスクが高いからだ。出る杭は打たれる。

私たちは、太古からこのような矛盾した欲求の中で、日常生活を送ってきていて、それは21世紀もすでに四分の一が過ぎた現在でも変わらない。

付け加えると、人間には「優れたリーダーを崇拝し、フォロワーとなる」本能も備わっている。これは、共同体の結束を強め、安定して維持するためのもの。「ジョブズってすごいよな!

実は以上のことは、評論家であり作家の橘玲氏の著書で学んだことなのです。種明かしをしてしまうとね*1

 

2. サラリーマン、会社人間の定年後と共同体意識


ぼくのようにサラリーマンや会社人間としてのキャリアを長く歩んだ人々は、特に共同体である「会社」という組織の中での役割やアイデンティティに強く依存してきたはずだ。多くの場合、その組織での成功や立場は、集団内での自身の価値を確立する手段となってきたことは否定できない。「やっぱり部長はすごいっすね!ヨイショっと!」

そこで、会社が強制的に離職を求める年齢、すなわち定年を迎えると、このような共同体から離れることになり、そのアイデンティティの全てを失うことになる。これが「共同体からの排除」されることで、本能的にぼくたちが一番恐れることだ。だからこそ、ぼくたちは定年をおそれ、定年後のことを考えると、不安になるのだ。そして、実際に定年を迎えた多くの男性サラリーマン、特に、一社に40年近い年月を捧げてきたシニア男性は、不安になり、途方にくれる。

その不安と途方に暮れる気持ちを紛らわせるために、「俺は自由だ!何もしないぞ!」と声高に吠える。これを認知的不協和と呼ぶ。

しかし、定年後は新たな共同体を形成するチャンスでもある。実際に、趣味や特技を活かしてコミュニティを形成したり、ボランティア活動を通じて新たな人間関係を築いたりすることに活路を見つけるひともいる。また、長いキャリアを通じて培った経験や知識を資本にして、転職先などの新しい共同体で、若い世代やコミュニティのリーダーとしての資質を発揮することができる幸せな人もいるかもしれない。このように、定年後も自身の価値を見つけ、集団の中で活躍することで、生活に充実感や達成感を感じることができたら、ハッピーだろうなあ。再び「自分は優秀である」と感じることができるチャンスを得られたらそれは幸せなことだと、皮肉ではなくてそう思うよ、ぼくだって。ただ、空回りしすぎると「あのジジイ、自慢話ばっかりして威張っていてやな感じ!」とばかりに、それはそれで共同体から排除されてしまうこともあるだろう。男はつらいよ。

 

3. 足枷からの解放と恐怖の自由

サラリーマンや会社人間として長い年月を過ごした多くの人々は、組織内での成功や立場を維持するため、「優秀であることを示す」というプレッシャーと、「目立ちすぎず共同体から排除されないように」という矛盾した使命感に追われてきたはずだ。ぼくだっていわれたよ、「くちきぃ、お前は脇が甘いんだよ、気をつけろよ」って。それを言ってきた張本人が、その後、背中からぼくを刺した。

人より優秀であって功績を残しつつ、目立たないように、妬まれないようにする、そのタスクが、大きな「足枷」としてぼくたちにはまっていた。そして、その足枷がはまっている限り、「安定(なのか単なる安定感なのか)」を得ることができた。

ところが、日本の法律で唯一適法に一方的な解雇を通告できる「定年」を迎えると、この「足枷」から解放され、自由という不安がのしかかってくる。定年は瞬間だが、足枷が外れる/外れた不安は、定年前後の数年から十数年に及ぶだろう。

外れた足枷の代替を求めるのか? 不安で不安定な自由の中でうまく泳ぎ回ることを考えるのか? 

この選択は別にトレードオフではない。世の中で二者選択と言われるものの多くが白黒やマルバツではなくて、程度の問題であるように。

定年後は新たな趣味や活動、長年の夢や情熱(if any)を追求するチャンスとは言える。そして、今までとは違う別の自分を共同体の中で表現することで、新しい人生の意味や価値を見つけることが可能となる、かもしれない。運とあなたの性格がよければね。新しいコミュニティやグループに参加し、持っている経験や知識を生かしてそこで、新たなポジションを獲得することも不可能ではない。ただし、集団の中で生きる限りは、「新しい足枷」から逃れることはできない。


では、もっと自由を求めて、共同体から距離を置くことも?

 

しかしそれには危険が伴う。海で自由に泳いでいるつもりが、次の瞬間、シャチと呼ばれる肉食クジラのタンパク質補給に献身することになるのかもしれない。

共同体から離れた場合、保護されることが少なく、結果として謳歌するはずの自由が制限されることもあるだろうな。通勤費はもうでないんだよ。

だからさ、定年後、どうやって生きるか、どうしたいのかどうするのか、考えるのはとても楽しい。

 

4. 人生は無理ゲー

ゲームはある程度難しいから面白い。つくづく、人生は無理ゲーですな。

 

 

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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kuchiki-office.hatenablog.com

*1:「世界はなぜ地獄になるのか」「シンプルで合理的な人生設計」「幸福の資本論」「残酷な世界で生き延びるたった一つの方法」「無理ゲー社会」「上級国民、下級国民」「言ってはいけない」「もっと言ってはいけない」など。