一度目にもらった大金を使い果たしてしまったと泣きついてきた杜子春に道士は尋ねました。
『それならいったいお前はいくら欲しいんだ?』
杜子春は、最初にもらった金額の、倍、いや、三倍の金額を口にしました。
『よろしい、それでは翌朝、鶏が鳴く頃、都の西門前を掘ってごらん......』
自分には、いったいいくら必要なのか。いや、違うな。自分には、一体「何が」必要であって、「なぜ」必要なのか、そのために「いくらのお金」が入り用なのか。
お金が必要、なのではない。何かをするためにお金が必要なんだ。それにさ、いくら幾らって積み上げていって、自らの欲望がバルンガみたいに膨らんでしまったところで、お金っていうのはあるだけしかないんだよな。
あぶねー、あぶねー。支配されてしまう。
老後・定年後のことを考えるというのは、自分の人生を考えるということ。お金を考えることじゃないんだよ。
テレビのCMでは「生きるリスク」とか不安や不確実性をあおっている。ぼくたちの不安を膨らませて商売をしている人たちがいる。それ自体は否定しないよ。ぼくだって同じようなことをしてきたんだもの。
でもね、決めるのはぼくだ。
「不安だ、不確実だ」というけれども、20歳のころに比べてみると、将来が短くなった分、不確実性ということは減ってきている。
20歳の頃は、40年先は不確実でまったく想像がつかなかった。60歳が目前に迫っている今、これから40年先のことは、ほぼ確実ですな。
ゆっくりと眠っていたいものです。
© 朽木鴻次郎
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