日本語を母語としている我々は、思考もまた母語にひきづられるのは当たり前のことだ。従って、日本語と異なる様式の思考や表現に出くわすと違和感を感じ、はなはだしくは嫌悪感まで催してしまう。たとえその思考や表現が「文法として」日本語に則っていたとしても。
その一つ。日本語は主語を言わない場合が多い。それは文脈から主語を推測することができるからだ。聞きかじりではあるが、日本語ほど文脈に依存して成り立っている言語はないのだそうだ。
受け身の表現も多いよね。「この企画はここまで詰めておけばいいと言われました」とかさ。
ところがね、組織での仕事って、伝言ゲームだからさ、事実や意見がちゃんと伝達されないとこんがらがっちゃって正しい判断ができなくなる。
「この企画はここまで詰めておけばいいと言われました」と新入社員が課長さんのぼくに言ったとしよう。
誰が? ぼくの上司の部長がそう言ったのか? それとも上司でもないのに口を出してくる窓際の次長か?ぼくの部下で仕事も良くできる係長のA-君か?その新入社員の教育係としてつけている入社三年目のB-さんなのか?
もしかして、君のママがそう言ったのか?
ぼくも日本語を母語としている人間だから、「主語を言うこと」に対する心理的な抵抗感や嫌悪感は良くわかる。「受け身」の構文を使いたい気持ちも良くわかる。でもぼくは聞く。
誰が君にそう言ったのですか?
気をつけているとテレビやラジオのCMでもたくさん「主語を言わない」「受け身の構文」が出てくるんです。
・この新しいxxxxは世界で最速のダイエット方式と言われています。
・含まれているxxxx成分は膝の痛みに効果があることで知られています。
誰がそう言ってるの?ぼくはそんなこと知らないよ?
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