〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

羽織の紐・新撰組結び 考

 

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和服の羽織の紐(ヒモ)長〜くして一回結んだのを首にかけたりする着こなしスタイル、応援団とかでよくみるのですが、どうやら昨今は、羽織の紐の「新選組結び」と言われるらしい。

新選組結び」で検索するといっぱい画像が出てきます。


新選組の隊士が始めたのかな? 隊士は普段黒い(黒っぽい?)羽織を着ていたらしいし、浅葱色のだんだらの「新選組の羽織」はそんなに着られたものでもないらしいし... 

なんかひっかかるな、と思っていたら以前読んだ本を思い出しました。

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星新一の「明治・父・アメリカ」は星新一の父で星製薬の創業者であり衆議院議員星一(ほしはじめ)の青年時代を描いたノンフィクションです。その75頁(新潮文庫昭和55年)にこんな記述がある。


「当時(注:明治20-30年代)、洋服を着るのは上級の役人ぐらいで、ほとんどの人は和服だった。余裕のあるものは羽織に金をかけ、羽織のひもに高級なのを用いていい気になっていた。△それを見て星は思いついた。金がないからアイデアでいこう。下宿の女主人に、安い糸でいいからうんと長い羽織の紐を作ってくれと頼んだ。それができ、星は羽織に取り付けた。むやみと長いのである。奇異だが、しゃれた感じがしないでもなかった。△学校へ着てゆくと、それが話題になり、級友の中には、真似をするものがあらわれ、ふえていった。やがて長さをきそいあうようになり、先の方を結んでひとひねりし、首に引っ掛けるというのまで出てきた。△ちょっとした流行になり、星はいい気分だった。(以下略)」

 
もちろん、星一が始めたっていう星新一の記述が絶対正しいという検証を僕はできないのですが、羽織の長い紐は幕末ではなくてずっと後年、明治の中頃に始まったっていうのは、そうなのかもなって思う。

明治・大正と悪役の新選組が見直されてブームになったのが昭和初期、その頃の映画・演劇で明治中期から学生などに流行っていた「長ひも羽織」がワイルドでバンカラだっちゅうんで取り入れられたのではないかなと睨んでいる。

注:歴史作家・考証家の山村竜也氏もブログ(2014.2.10)で新撰組はこのような長い羽織の紐結びをしていないとおっしゃっています。やっぱり。

 

とはいうものの、ハガネのハチマキ・漆黒胴にぶっさきのダンダラ羽織、長い紐を「新撰組」結びでクビにかけてる姿ってのは、新選組隊士として、実に絵になりますなヽ(´▽`)/ 

 

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これが「新撰組結び」

最近、望月三起也の「俺の新選組」をキンドルで読んでるの。おもしろーい!

 

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新撰組ゆかりの地の訪問記、先日アップいたしました。ぜひご覧くださいヽ(´▽`)/ 

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summer kisses winter tears ・熱いくちづけ 冷たい涙

エルビスの1965年の曲ヽ(´▽`)/

 

www.youtube.com

 

先日ラジオを聴いていたら、女性ボーカルがカバーしていて、誰かと思ったらジュリー・クルーズだった。もちろんエルビスもいいんだけど、オリエンタルで気だるい曲に女性ボーカルがぴったりでした。

 

そっちの動画も下に貼り付けておきますが、あんまり動画のセンスが良くない。歌はいいんだけど....

 

Julee Cruise - Summer Kisses Winter Tears - YouTube

 

1990年代半ば、ベトナムサイゴンのレックスホテルのダンシングホールで、よくかかっていた曲です。

 

当時は「ホーチミンシティ(タンフォー・ホーチミン)」に名前は変わっていたけど、地元の人はサイゴンって呼んでて、別にとがめられることもなかったよ。

 

 

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サイゴンの昔からのホテルには大きなダンスホールがあった。

マジェスティックでもレックスでもそうなんだけど、ダンスホールの中は真っ暗。生バンドが演奏する。

でも昔の曲ばかりヽ(´▽`)/ 

 

古い建物なんで、ダンスホールもちょっとカビ臭い。この曲を聴くとそんなにおいまで思い出します。

 

summer kisses winter tears

happy hours lonely years

熱いくちづけ 冷たい涙

一瞬の歓び 永遠の孤独

 

ハッピーアワーっていっても、ビールが半額になることじゃないですよーヽ(´▽`)/ 

 

 

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どうしてあんなこと言っちゃったんだろう...

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- 親父(オヤジ)もたいしたことねえな!
 
僕が中学生だった1970年台の半ば、父親にそう毒づいたことがありました。どういう文脈、どういう状況であったかはまったく忘れてしまいましたが。

- 60年代の高度成長期にどうしてもっとうまく世の中を泳いで、成功できなかったのかよ?

 

多分、父親は、50台の初め・半ばだったころでしょう。今の僕より少し若かったはずです。

「そういうなよ、コージロー... できなかったんだよ」

 

怒り出すかと思ったら、意外にも穏やかな声でそう言われたので覚えているのですね。

父親は、1998年の10月に72で死んでしまいました...


今思うと、穴を掘って入りたい。父親に土下座したい。おれの言葉は針も毒もある。イヤな子供でした。そう言われてもグーの音もでない。

大正十五年生まれの父親は終戦の直前に兵隊にとられ、九十九里にタコツボを掘らされてM4シャーマンタンクへの肉薄を命じられて対戦車破甲爆雷を抱えているうちに終戦となり、復員後なんか政治家の秘書とかもしたらしいのですが、20代半ばにまずは江戸川で産経新聞の販売店を始め、数年後に日本橋に移った。

 

新聞販売店の経営は、そーとー苦労もあったらしいけど、そこそこ、どころか、かなりうまく商売をしていたと思います。

ただ今思うと「蓄財」ということには興味がなかったようでした。家族のためや自分の趣味に稼いだお金を使っていたと思います。

そのおかげで僕は教育を受けることができたし、あまり不自由を感じることもなかった。


ただただ頭が下がります。

 

親父が死ぬ前の年、1997年の夏に、ぼくは最初の転職をしました。

 

「大丈夫なのか?」

 

転職の事後報告をするときに、そう言われたかどうかさえも記憶がない。ぼくは自分のことしか考えてなかったんだと思う。

 

ごめんなさい。

俺なんか、もっと大したことないです〜ヽ(´▽`)/

 

 

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