読了しました。全9巻。大迫力です。
++++++++++
日本は、力がないくせに、負けるに決まっている無謀な戦いを始めたあげく叩きのめされたのではない。力が欲しくて、力を求めて、力を持ったあげく、その力を持て余し、制御できなくなってもはや取り扱うことができなくなった結果だ。
ここでいう「力」とは単に軍事力のことだけではない。
それが読後のなんともやるせないぼくの感想です。
船戸与一の小説は初めて読みました。えっとね、ここで書評をするつもりはないです。できないし。
戦争。革命。叛逆。狂気。弾圧。謀略。抗命。破壊。哄笑。落胆。敗残。抑留。幕末維新時に巣立ちした日本の民族主義が明治期に飛翔し続け、第一次大戦後の国内外の乱気流に揉まれて方向感覚を失い、ついにはいったんの墜死を遂げるのだ。(略)書きながら痛感させられたのは小説の進行とともに諸資料のなかから牧歌性が次々と消滅していくことだった。
上は第9巻(最終巻)末尾の作者のあとがきから抜粋です。これを書き終えて船戸与一は死んでしまった。これを書き終えるまで死ねなかったらしいです。
「第一次大戦後の国内外の乱気流に揉まれて方向感覚を失い、ついにはいったんの墜死を遂げるのだ」
長大な全巻を凝縮するとこの一文に尽きると思う。
舞台は広いので、ちゃんと地図で確認しながら読み進めていかないとよくわからなくなる。丁寧にゆっくり読んで行ったら、一ヶ月半かかりました。
写真の上は、第1巻(1928年・S3)の巻頭の参考地図。奉天(現・瀋陽)と満州(現・中国東北部)の地図です。それが第8巻(1942年・S17)、写真の下の本ですが、その巻頭参考地図の版図のなんと大きいこと。
まさに日本は方向感覚を失っている。自分が得たモノを保持できなくなっている。保持できないほどのモノを欲して、それを得たのち、取り扱えなくなってしまっている。
しかも、本当にその「モノ」が欲しかったのかというとそうではなくて...
実はその「モノを得る」という行為を達成することで、自分の正しさや能力の確認、賞賛、顕示欲、そういったものを満足する・満足させたいという衝動が本当の動機だったのではないかとさえぼくは思う。
この「満州国演義」では、塘沽協定が結ばれる1933年・第3巻ぐらいまでは、青龍撹把の敷島次郎を中心にある意味爽やかにも読めるのだが......
書きながら痛感させられたのは小説の進行とともに諸資料のなかから牧歌性が次々と消滅していくことだった。
当然、小説を彩るフィクション・ノンフィクションのエピソードにもある種の爽快感が徐々に失われて行く。
作者は、物語の最後に、登場人物の一人に、こう語らせている。
いまや古典となったクラウゼビッツの戦争論の一節、「戦争とは他の手段による政策の延長である」*1という言葉では纏めきれない。総力戦構造、兵器と戦術の劇的変化、開戦理由の合理性。この三つが整理整頓されることはまずありえないと思う。
(新潮文庫版・第9巻・75頁)
戦争は理性的に整理されることがあり得ないという諦念は、実に身も蓋もない。
しかし、腑に落ちる。
++++++++++
最近は老眼が進んだので、あまり、本、特に新しい小説が読めなくなったな...と思っていたら、まだまだ読めましたヽ(´▽`)/
*1:クラウゼビッツの名言の定訳は上記であるが日本語として実にわかりにくい。その意といえば「戦争とは政策遂行の一つの手段に過ぎない」というほどのものである。