問題に対して「正しく答えを出す」つまり、正解を出せば点数がもらえる。
しかし、点数というのは目的なのか?
例えば、英語のTOEICというテスト、があるでしょう? なんのためにそのテストがあるかといえば、当然のこと、その人が英語ができるかどうか、仕事などで英語でどの程度のコミュニケーションが取れるのか、物差しにするものだ。ところがね、何回もテストを受けて、問題集や過去問、傾向と対策をやって、点数を上げてくる人がいる。てか、もう、ほとんどの人がそうだよ。
だってさ、600点以上*1取らないと課長に昇進できないという会社があったとしよう。595点だと、惜しいけどダメなわけだ。そりゃ、点数は上げたいわね。だから、ぼくは点数を上げるための勉強は否定しない。
否定しないけど、ぼくはそういう点数を上げるための勉強はしない。嫌だもの。高校時代にサンザそういう点数のための勉強をしたんだ。もういいや。
英語をウリに会社に入ってくる人たちの多くは、TOEICは900点台です。満点の990点に近い人もいた(今もいるんでしょう)。もちろん本当に英語ができるなあ、ちゃんと仕事で使えるなあと感心する人もいたけれども、それで9?0点?とガックリするような人もいた。
テストって、本来は実力を測ったりするものなんだけど、だんだん点数を上げる技術が磨かれてくると、 ちょっとその辺の本来の目的にはそぐわないものに変貌してしまう*2。
ここではわかりやすく、英語のテストの話をしたけれども、ぼくは本当は仕事のこととか、生きることの意味の話をしたいのです。
不公正な営業をかけて契約件数だけを増やしちゃったかんぽ生命のこととか、老後のお金の数字とか、本来、数字って何かを判断する目安なんだけど、どうもその目安だけが目的になってしまう。あるいは、報告書。何かを調査してその調査をキチンとやる、意味のある調査をすることが第一であって、その内容を必要な関係者に共有するために報告書はあるんだと思う。それが、単に「報告書」を書くことが目的になってしまう。報告書の回覧も「とりあえず全員」とかになっていく。意味のある調査という行為がおざなりにされて、報告書作成や回覧の生産性が上がっていく。
流行りの生産性って、モノサシであった「テストの点数」がいつの間にか目的になってしまったのに似ている。
とにかくぼくは、テストはもういいです。
ところでさ、熟女って何歳から? え〜、また数字の話?
© 朽木鴻次郎
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