〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

受験のノウハウと人生の知恵・暗記と記憶

大学受験のために駿河台の予備校に通ったのだが、数学の有名講師の言葉にはびっくりした。

数学は暗記科目である。このテキストの例題、約100題をなんども解いて解法を覚えろ。

確かにそれで数学の試験の成績は上がりました*1

 

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現実の問題を自分の知っている、つまり、暗記している類型に当てはめて、暗記している解法パターンを引っ張り出すと、わりと楽に解決を得ることができるという知恵だ。

実はこの記事を書くにあたって、「過去問とか解法の暗記では、テスト対策にはなったとしてもほんとうの実力はつかないのだ」といったような趣旨にしようと思っていたのです。

ところがね、うまく文章がかけないの。「解法を覚えても実力になはらない」という考え方に無理がある。

 

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老人に許されるものは豊かな経験と柔軟な知恵だ。

豊かな経験とはなんだろう。問題解法のパターンの厚みではないか? 柔軟な知恵とはなんだろう。その解法パターンの様々な応用のことではないか。

 

馬鹿者は経験したことしか学べないが、賢者は歴史に学ぶ。

どっかの偉そうなやつの偉そうなセリフだ。しかしこれだって学ぶ解法の質量を問うているにすぎない。個人の経験よりも、過去の人類の経験の方が膨大な厚みを持ってはいる。学者によってふるいにかけられた過去の人物の経験のエッセンスが「歴史書」として残っている。それは予備校講師が厳選した100題の例題とどう違う?

解法パターンを学んでそれを現実の問題に応用する。駿河台の予備校講師のノウハウそのものだ。バカにすることなどできない。「解法を暗記すること」それが人生の真実なのではないか?「暗記する」というから安っぽくなる。「記憶する」というとなんだか重厚感がただよう。暗記と記憶、おんなじことさ*2

 

当然のことだが、人生の問題には正解がない。解答は一つではない。ある決断が不正解であると簡単に断ずることもできない。一見すると明確な不正解(例えば戦争に負けるなど)でも、それ以外のアプローチによる結果が検証できないが故に、実は不正解ではなかったのではないか? と考えることは常に可能である。

 

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サラリーマンになって、歳をとって後輩ができるようになり、若い彼/彼女らに何度もこう言ったことがある。「ぼくがどう判断して、どう行動するか、よく見ておくんだ。『クチキさんはなんてばかなことをしてるんだろう!』と思うこともあるだろう。そんなときは『自分ならこう判断してこう行動する』と常に考えておくんだよ。"見取り稽古"をするわけさ。意識して考えるだけではなくてね、言葉にして、文章にして、"見取り稽古"を繰り返しておくことは、いつか必ず財産になるよ」そう教えた。

要するにこれも、解法のパターンを積み上げる・練り上げる、そう言っていることに過ぎないのですね。

偉そうに生きてきたけど、「解法を暗記する」という駿河台の予備校の数学講師の受験ノウハウには、ある種の真実が詰まっていた、そういうことだったんだな。

 

皮肉でもなんでもなく、ほんとに役に立ったと思う。ぼくは楽天的なんでね、そう思う。その方が楽しいよヽ(´▽`)/ 

 

© 朽木鴻次郎
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*1:それまでは数学は、論理の積み重ねで解くものだと思っていたの。そのために参考書や問題集をたくさんたくさんやることだと思っていた。でもそれだって「たくさんやって類型を覚える」ということだったんだよね。類型を覚えるなら、厳選された例題を、何度も何度も繰り返し解いて覚えるのが効率的です。

*2:もちろん言葉が違うから微妙に意味は異なる。暗記には理解や応用が欠けるというネガティブな意味が含まれるからな。