〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

技量と感性、そのバランスというもの

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以前、ラジオの番組に夏木マリさんがゲストとして出ていて、パフォーマンスをするときの感覚の盛り上がり/高揚(groove)について尋ねられたときに、夏木さんはこうおっしゃっていました。

 

あえて誤解を恐れずに言いたいんだけど、パフォーマンスには技術、テクニックが必要で、テクニックのないところに感覚の高揚はないと思う。

 

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「子曰く学びて思わざるは即ち罔く思いて学ばざるは即ち殆し」

 

孔子は、「学び」と「思い」を等しく扱っている。夏木マリさんも、「技術」と「感性」とを等しく扱いたいのだと思います。よくある議論ですが、「物事は形から入る」べきか、あるいは、「意味から入るべきか」という対立と、夏木マリさんや孔子が言っていることは少し違うと思うんです。

 

「その意味はわからなくてもいいから、とにかく先輩の真似をして形から入るのが良い」という人もいれば、「意味がよくわかってからこそ、形が物になる」と考える人もいます。だけども、当たり前のことなんですが、どちらも大事。だからこそ、文脈の中で、「学び・技術」と「思い・感性」のバランスが崩れているときは、平衡を取り戻さなければならないと思う。

 

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実はこの「A」と「非A」とのバランスというのは、天秤座のぼくの一つのテーマなのです。

 

ここでは、「技術」と「感性」の対比でしたが、ときによっては、「手続」と「実体」であったり、「嘘」と「真実」であったり、「美」と「醜」であったり、「忠」と「孝」であったり、「愛情」と「無関心」だったり…… あるいは;

「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

  

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「常」と「非常」だったりする。

 

常にあることも、常にあらざることも、バランスが求められる。

 

そのバランスは、スチル写真のように一瞬を切り取ったものではなくて、ムービー・動画のように連続した一連の時間の中でのバランスなんだ。一瞬のアンバランスももう少し長い時間の経過の中で捉えることで、危ういかもしれないけれどもバランスが取れる。

 

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ねえ、なんかの言い訳をしてんの?

 

.... へぇー、よくわかったね。

 

 

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