「考える」ということは「食事をする」ということに似ている。
どちらも対象を特定して捕捉し、捕捉する過程でその対象に自分なりの意味を与えるからだ。ステーキを切り分けて、口に運んでそしゃくして、「うまい!」とかね。
「食事をする」ということが、対象を特定して捕捉し、それに意味を与えるということであるならば、それと似た人間の行為としては... \(//∇//)\
えっと、えっと、この辺でやめとこっと。
...「意味を与える」ということは思考や感情を体系化することだ。 それを他人が納得するか、理解するか、受け入れてくれるか、であるが...
そんなこた知ったことか、とも思う。
自分で焼いたステーキがうまけりゃ、それでいいや。
と、強がってはみるものの、ちょっとは共感も欲しいかな?ヽ(´▽`)/
大昔、大学で民法の教科書を読んでいたとき、こんなことが書かれていました。
「世の中の学説は、A説、B説、C説、とあった場合、一番説得的な学説が主流となり、通説になっていく。そして、新しい学説、D説が現れて、そちらの方がより説得的であると、それが通説になっていくのです」
説得的であること。つまり、みんなが「なるほど、筋が通っている!」と納得することなんですと。
通説を支持する人って、本当に納得してんのかな?
「説得的である」というのはどういうことなんだろう。
「あいつの話は、確かに論理的かもしれないが、俺は納得できない!」
......ありそうですね。
「おれは論理的に話したのに、納得してもらえなかった...(怒)!」
「あいつの話には、どうも納得いかないんだが、つい、オッケーしてしまうな...」
そういうのもあり。おおあり(喰い)だとも思う。
論理『的』思考は論理ではない。カニカマがカニ的ではあるがカニではないように。