〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

「てにをは」を直していただけるでしょうか?

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ぼくが新入社員のとき、稟議の案文を作成して、課長に見せて修正を入れたら、
 
「これでOK、部長は文章にうるさいから、事前に持って行って、『てにをは』を直してもらってこい!」と言われたんで;
 
「部長、『てにをは』を直してください!」
 
と無邪気に持って行っもんだから、ものの見事に怒られました。
 
「バカヤロウ! おれはお前の書いたものの『てにをは』を直すために部長やってんじゃねえ!」
 
 

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新入社員のころ、上司・先輩から「クチキー、お前は一から十まで全部言われなくてはわからないのか......!」とよく嘆かれたものだ。

 

そりゃそうなんだけどさ、ずるい上司がいて、わざわざ皆までは言わないでおいて、こっちが「忖度」してあれこれとやって持っていくと、「違うだろう!」と後出しジャンケンをするんですな... だから事前に聞くんだよ。そんでもって、聞くと怒られる。

狡猾だ。ずるい。言外に匂わす。言われないことでもやって当たり前。そういうコミュニケーションを本質的には狡いとぼくは考える。

自分では明言しない。言わないのに結果をもとめることが狡いのだ。

 

後出しジャンケンは狡猾だけど、そもそもで言うと、忖度すること、相手の意図を考え抜いて、その意図をオモンパカることは、ビジネスだけではなくて人間社会では必要なことだと思うよ。



「バカヤロー、もういい、帰れ!」

今こんなことを職場で言ったら、人事に言いつけられて大変なことになるのですが、昔はよくあったよね。

それでマジに帰ろうとする空気の読めない同僚がいて、「帰れと言われて帰るやつがあるか!」と、なおさら怒られて、廊下で涙こぼして泣いてたというヽ(´▽`)/

不器用なやつだったな... 今、どうしてんだろう。

 

 

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1990年代のおわりくらいのこと。

当時20代の若手社員が、「本件は誠に遺憾に存じますが、うんぬん」と書いた取引先への回答文書の原稿を持ってきて、当時50代の上司の決済を仰いだところ...

「...そうだよな、君(20代)くらいの年齢ならそうは思わないかもしれないがな、『誠に遺憾に存じます』って、俺ら(50代)くらいの歳の人間には、冗談か、ふざけてるようにしか聞こえないんだ。書き直してくれないか?」

・クレイジーキャッツのコミックソング「誠に遺憾に存じます」が流行したのも今ではもう昔のこと。

最近はときどき見かけるから、ようやく使えるようになったかな。ここまでに50年かかったのか。

・そんな報告受けてない
・事実とすれば大変だ
・すぐに調べて善処する
・誠に遺憾に存じます

この辺の言葉は地雷っちゅうか、使えなかったね。

 

特に「すぐに調べて善処します」なんて言ったもんなら:

 

「お前は役人か!フザケンナ!」

 

って書類を投げつけられて怒られたよ。

「記憶にございません」が流行語になったのはもう四十年も前のことだ。ようやくまた同じような文脈で使われている。

宿題やってきてないのか!? って学校の先生に怒鳴られて「記憶にございません」なんて答えたりすると、教室ではドッと受けたが、ぶん殴られて教壇に正座させらたものだ。

当時は体罰が許されていたのよ。

...はい。

「忖度する」ってことは、ほんらいは仕事に必要なことです。

一を聞いて十を知る。ツーと言えばカー。

 

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- お昼何食べたい?
- なんでもいいわよ...

だからって、どこでも・なんでもいいってわけじゃない。

「なんでもいいわよ」っていうのをよくわかる日本語に翻訳すると;

「今までの付き合いの中からアタシの嗜好をよく考えて、今日のアタシをよく観察して、アタシが何が食べたいかアタシの立場に立って考えなさいね、アタシのことが欲しいのならね」

という意味なのですな。

 

男の子の人生は常に試練にさらされているのです。さらさらさらヽ(´▽`)/ 

「察してちゃん」って言うんだってさ。

批判されたりしてるらしいけど、程度の問題だし、かわいいもんだとおもうよ。


 

©️ 朽木鴻次郎
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kuchiki-office.hatenablog.com

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あじさい・御池富小路西入ル 三回めにはそっと出し...ヽ(´▽`)/

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上の二枚は、京都市内、御池通の北側の青いあじさい。

 

 

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今度の二枚は、南側の白いあじさい。

青いのと白いのと、どっちも好きです。

そんならさぁ...

 

 

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これでどうだ!

 

カレンですね。雨が似合うし。

御池じゃないけど、ご近所の鉢植えですヽ(´▽`)/  

 

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ぼうず、うめんるじゃぁないよ...!

ある種の生物は摂氏数百度の高温の中でも生きることができる。熱いと感じないのだろう。
 

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子供の頃、家風呂がないものだから(1960年代の東京ではそれがフツー)、通りを渡った向かいの本町にあった「たから湯」という銭湯・お湯やさんに通っていた。子供だったもんだから大抵は母親と女湯に入るのだが(テへッ)、早い時間に父親と行くときは男湯でした。当たり前だけどね。
 
 
東京のお風呂屋さんの湯船は二つあって、浅い方と深い方。どっちも熱いんだけど、深い方の熱さったらもう、火傷ですよ。多分47-8度あったんじゃないかな? それをね、うめようとなんかすると、熱い湯にでも浸かってないとどうにも生きてらんなくなっちゃってる干からびたツルみたいなじいさんから「ぼうず、うめんるじゃぁないよ、ぬるくなるじゃねぇか!」って怒られたもんだ。
 
男湯だけじゃない、女湯でも同じだったな。ジュンコちゃんのおばあちゃんはしなびたおっぱいをもう一度ふくらましたかったのか、いつもあっついお湯に首までつかっていた。うめようとするとシオカラ声で「コージロ〜ちゃん、お湯をうめちゃちゃあ、ダメだよ〜、いいかげんなんだからさぁ〜」ってにらまれた。
 
三分入ってっとインスタントそばができるぐらいの熱いお湯だよ?
 
 
 

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その辺をわきまえてたもんですからね、京都の街中にはまだまだ銭湯が残ってるんで、今もそうなんだけど、14年前に越してきたばかりの頃は色々回ってみたときにも気を使ってた。京都のまちなかのとある古いお風呂屋さん、すごく雰囲気があっていい感じで、午後の早い時間に入ったからかな、お客さんは誰もいない。ぼくが一番だった。
 
で、お湯がすごく熱い!
 
ぼくは45度ぐらいまでならなんとか入れるんだけど、まじ、それよりかずっと熱い。熱湯コマーシャルじゃないのかよってくらい。それを無理してそろり、そろり、って入ってたんです。
 
落語ですよ。
 
しばらくしたら、地元のご老人がお二人ほど入ってきた。
 
....こっちもシロトじゃねえのさ、うめなくてよかったなっ、て我慢してたら....
 
「熱っついな! こんなん入れるかいな!」
 
おれのことをぐっとニラんでさ、熱いお湯をガンガンお水でうめてた... 
 
... 本当にもう、身体だけは大事にしてくださいね、どーもスイマセンヽ(´▽`)/ 
 
 

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真空・絶対零度の宇宙空間で放射線を浴びながらも生きていたプランクトンもいたことが記録されているくらいだから、「生きる」ということだけに限っていえば鈍感であることは大変重要な特質なのだろう。熱いお湯に入れるのも、年をとって鈍感になっているからなんだろう。
 
生きてはいられる。ただし、「楽しく」生きているかどうかは疑問かもね。
当時のおじいちゃんやおばあちゃんはあんなに熱いお湯で気持ちよかったのかな。
お風呂は42度ぐらいがいいです。それでも熱いか。
 
 

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ぼくたちは、この世界で「楽しく」生きている。楽しくないことも含めて、生きていることはとりあえずは幸せなことだ。
 
多分とりあえずは幸せなんだろう。ぼくたちは地面を這い回る虫を哀れむことがある。「あんな風に生まれなくてよかったな」と。すぐ踏まれて死んじゃうし。
 
でも、どっか上の方からぼくたちを見ている存在からすれば、ぼくたちのように生まれなくてよかったな、あすこまでは堕ちたくないな、と思っているに違いない、と昔から人々は考えてきた。
 
いつも「自分は幸せか?」「本当の自分とは何か?もっとあるべき生き方があるんじゃないか?今の自分ではなく、別の自分になりたい」と考えているのは幸福なんだろうか?
 
以前は、そういうのは不幸だと思っていたが、今はよくわからない。
ホントにわからなくなっちゃったヽ(´▽`)/ 
 
「考える」と「想像する」「空想する」とはどう違うんだろう。
 
ビミョーなニュアンスや定義の差は当たり前だが分かる。
とはいえね、おんなじようなものでもあるよ。休日に出くわした同級生のご家族、お父さんお母さん、友達とその兄弟姉妹がみんなおんなじ顔をしてるだろ? ヽ(´▽`)/ 
  
 
 

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